東横病院内でミサを捧げていた人々をきっかけとして、1958年アトンメント会が武蔵小杉に設立した教会です。


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新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り(4/4追加)





年間第30主日

 
愛すること。

 季節の変わり目とともに「ロザリオの月」最後の主日を迎えました。「ロザリオの祈り」を何度も唱えた私たちは、小さな繰り返しが大きな祈りになることを知っています。助けを求める私たちに寄り添い共に歩んでくださる聖母に感謝し、これからも「ロザリオの祈り」を通して、その生き方に倣い、神の愛を信じて歩んでいきたいと思います。
 さて、21世紀に入ってから、科学の目覚ましい進歩によって少し前までは夢物語だったことが現実のことになってきています。例えば、生活の様々な場面でロボットが活躍していることは、人間の長い歴史の中の成功例、偉大な発明かもしれません。人間の姿そっくりに作られたロボットは、人の手が足りないときや、自然災害で人間が足を運べないような場所で、人間に代わって働いてくれています。本当にありがたく助かります。しかしロボットは無表情です。ロボットの開発者は全力を尽くして益々人間に似たもの、愛するとか嫌うというような感情をも表すことができるものにしようと、研究しています。
 一方、今はどんな時代より社会の至る所で、人間たちが冷たく無表情で「薄情」になっていると言えるのではないでしょうか。一緒にいるにもかかわらず、その場に心のない「無関心」ということも起きているようです。具体的に言うと、悪いことをしている人を見ても何も反応しない、きれいなもの、美しいものを見ても感情を表すことがないのです。心にまったく響いていないかのようです。まるで現代人は、ロボットのように無表情になっているのではないでしょうか。ご存知のように人間以外の動物は感情を表すことはできません。愛情は人間にしか表せないものなのです。愛は、心の最も内側から出てくるものです。
 最新のロボットが買い物をし、掃除をし、赤ちゃんを寝かし付けることができても、たとえ、声のようなものを発しても、すべての行動には感情がありません。行動できても魂はなく、冷たく、愛はないのです。そう考えると愛とはどれ程大切なものでしょうか。太陽がこの世のすべての被造物に必要であるように、愛はすべての人間に必要不可欠なものです。愛がなければ暗闇の中で生きるのと同じです。
 ですから、今日の福音の中で、律法主義者やファリサイ派の人々がイエスをためそうとしたとき、イエスは、モーセを通して神が人間に命じた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という旧約のみ言葉を最も重要な掟であると確認しながら、「隣人を自分のように愛する」というもう一つの掟を教えてくださったのです。
 イエスが教えてくださったこの掟は、大昔から言われているものです。それは「あなたが寡婦や孤児を苦しめる場合は、私の怒りは燃え上がる」と、出エジプト記にあります。奴隷状態からの解放という救いの体験をした神の民は、弱い立場の人間への共感と愛を特別に求められています。なぜなら、救いの体験をしたからです。解放され、神の愛に包まれた者だからです。だから寡婦や孤児を愛することができるのです。福音は神が私たちにくださった良い知らせです。その喜びの中で、受けた愛への応答として掟が語られるのです。愛が掟であると言われますが、誰からも義務付けられたり、強制されてはなりません。なぜなら愛は最も自発的なもの、自由なものだからです。それが、キリスト教が愛の宗教と言われる理由です。しかし人間は弱い存在です。神を通してしか人を愛することはできないのです。身近な人を愛することは、掟でも束縛でもなく、救いの喜びの中での感謝の表れです。神との出会いは、兄弟との出会いでもあり、神への愛があるとき、隣人をも愛することができるのです。すべて先に神からの愛があります。神に愛されることによって他者を愛するようになるのです。「神を愛する」ことで結果として「隣人を愛する」ことができるのです。
 この愛は、キリスト者にとって生きる道です。私たちの生活の中の美しさです。ロボットは祈りを唱え、聖歌を歌うこともできますが、その行動の中に心を込めることはできません。私たちもミサに与り、祈り、歌いますが、もしも愛をもっていなければ、キリスト者も孤独で無表情なロボットのようであり、この世で神の証し人として生きることができません。だから、第2朗読の中の聖パウロの「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」という問いかけは、今の私たち一人ひとりへの問いかけでもあるのです。私たち人間は誰でも愛されたい者であり、また、自らも少しでも神と人を愛したいと思う者です。しかし実際にはそれほど簡単なことではなく、愛することも愛されることも難しいのです。
 2020年8月30日教皇フランシスコは「お告げの祈り」の言葉の中で「十字架は神の愛の聖なるしるしであり、イエスのいけにえのしるしです。単なるお守りやネックレスのような飾りではありません。主の真のしもべ、イエスは罪のゆるしのためにいのちをささげ、血を流され、ご自分の使命を果たされたことを、十字架像を見つめるたびに考えましょう。…イエスに倣い、神と隣人への愛のために自分のいのちを与え尽くさなければなりません。」と指摘しています。
 今日一日、出会う人々を通して、神の大きな愛を深く感じることができますように祈りましょう。そして、私たちも、心から神と人々を愛する者になりたい、という気持ちを大切に行動していきましょう。


年間第30主日_印刷用(PDF形式)


2020年10月25日
ハー・ミン・トゥ神父



2020.10.24 Saturday
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