cross.png 12月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
ワンチーム

 今年は例年より雨の多い一年だったような気がします。そのためか、暖冬とは言え、寒さも徐々に深まって来て、この時期になって、有名な紅葉の名所だけではなく、この近所でも精一杯紅葉を誇っているような樹々が観られます。紅葉して落ちた葉はその後静かにその樹の根元に積もりその樹を守ります。素直に、自然界の様々な営みにはいつもある種の感動を覚えます。

 様々な自然災害が次々と起った中で、大きな活躍を見せて、私たちを励まし、力を与えてくれた日本のラグビーチームのキャプテンが発言した「ONE TEAM ワンチーム」が、見事に今年の「流行語大賞」として選ばれました。「みんなが勇気づけられるような明るい言葉を多くの人々は望んでいる」という多様性の時代の先取りとして、尊重することの大切さを表すものと解釈されたのです。ラグビーは、誰か一人スター選手がいるというのではなく、何よりチームワークを大切にしてそれぞれの体や性格にあったポジションでそれぞれの役割を果たすスポーツです。正に「ワンチーム」です。そして、この「ワンチーム」という「お互いのために自分の力を出し合い、助け合う」という生き方は様々な分野で生かしていくことが出来ると思います。「塵も積もれば山となる」の言葉通り、時間をかけてチームワークを育てて行く時の礎とも目標ともなる言葉です。

 まだまだフランシスコ教皇様ご訪日の興奮が覚めやらないうちに12月に入り、教会典礼暦では新しい一年が始まりました。日本で教皇様が示してくださったことを思い起こしますと、何か例年とは異なった思いになるのは私だけではないでしょう。小さな子供や障害をもつ子供を抱き上げて祝福し優しく微笑まれるフランシスコ教皇のお姿を見て、会衆の歓声が一斉に沸き立った瞬間でした。その時は正に「この地球上で見捨てられ、忘れ去られた人々を救い出すため、私たちを助けてください」とラウダート・シに記された教皇様のアピールです。教皇様の「すべての命を守る」と言うアピールに「ワンチーム」になることが自分の人生を愛し、自分の愛する人生を生きることと強く重なり感動しました。またその決意を新たに致しました。

 「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識に於いて一つのものとなり、成熟して人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)
 ある神父様がカトリック新聞に書いておられた通り「ラグビー日本代表は教会の姿」です。フランシスコ教皇様が示してくださった道を、私たち中原教会共同体もお互いを支え合い、尊重し合い、助け合って「ワンチーム」となって進んで行くことが出来ますように、新たな気持で待降節だけではなく新しい教会典礼暦年をも過ごして参りたいと思います。


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2019.12.08 Sunday
cross.png 11月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
わけ       
理由アリでも!

 昔から「女心と秋の空」と言いますが、お天気が安定しません。台風の影響で紅葉の便りにも後遺症が強く残ってしまっているようです。季節を感じる心の余裕がないのか鈍いのか分かりませんが、秋の気配を素直に味わえないでいます。これも温暖化のせいでしょうか。
 いつも買い物をしているスーパーで「ワケアリりんご」を売っていました。相次いだ台風、特に台風19号によって甚大な被害を受けた長野県の特産品の「りんご」でした。勿論台風被害がなければ、このりんごは正規に市場に出回り「ワケアリ」などというレッテルを貼られる事なく並べられ、家庭の食卓に輝いて上った事でしょう。このりんごが出来るまでに一体どれ程の多くの人の手間暇や気遣いが掛かった事でしょうか。りんごの実を実らせる為のりんご農家の人々の、それこそ、りんご一個一個とのギリギリまでの関わりは欠かす事の出来ないものでしょう。いつもは、余りそのような事を考える事もなく食べていました。「ワケアリ」になってしまった今「ワケアリ」という言葉の持つ意味が私の中で大きくなりました。ベトナムには、こんな諺があります。「群れをなしている馬の中の一頭が草を食べない時は他の馬たちも草を食べることを拒否する」。(草を食べられない苦しみを共有するかの様です。)
 私たちは日々の生活の中で、被災者の痛みを十分心に留めて、それぞれ自分が出来ることで一生懸命助けようとする気持ちが強くなっていると思います。テレビでは、これまで広島や岡山での豪雨被害に様々な支援をしてくれた人々への恩返しの形で今回の台風の被害にあった方への支援や寄付行為が広がっていることを伝えていました。私たちはイザという時には、互いに助け合い、関わり合っています。そして分かち合い、助け合う時には、その人間の愛は、波がどんどん大きくなるように広がって行きます。もしかしたら、人間は大変な時がなければ人間の美しい心を生かして行くことは出来ないのかもしれません。
 教会カレンダーでは、年間の最後「死者の月」である11月を迎えました。11月に何よりの収穫、実りとして過去も今も未来も全部繋がっていることを再確認します。教会の交わりは、天国での勝利の「未来」と煉獄の苦しみの「過去」と旅する教会の「今」の現在です。その関わりの中で私たちは「今」を生きているのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(1コリント12:26)という聖パウロの言葉に問いかけられ、「死者の月」があるからこそ、私たちは交わりの神秘を深く味わい、旅する人とキリストの平和のうちに真に一致して、裂かれる事はないと確信しながら、互いの交わりを一層深めて行きます。
 「私は神様を見たいのです。見る為には、死ななければなりません」というイエスの聖テレジアの強い信仰に勇気づけられ、私たち一人ひとりの願いを振り返り、どんな「ワケアリ」があっても、希望のうちに、旅を続けて参りましょう。


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2019.11.03 Sunday
cross.png 10月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
何もない中にあるもの

 今年は、朝晩の秋風を感じながらも、夏の初めから今日まで厳しい暑さが続いています。自然災害だけではなく、それと連動しているかのような事件や事故が起きています。特に大人に抗えない幼い子供たちが凄絶な被害を受けた事件に心塞がる思いをしたのは私だけではないでしょう。今この時もキャンプ場の森の中で行方不明になっているたった7歳の少女をどれだけ多くの人が必死になって探し、待っていることでしょう。神に祈る度、命の大切さを痛感すると同時に、神の働きを改めて考えてしまいます。大型の台風・大雨・強風は、人々に甚大な被害をもたらしました。商売を諦め止めた人、農家の人々は今年の秋の収穫は何も望めないのか、人間の力ではどうにも出来ないのか、と半ばあきらめています。そんなニュースばかりの中で、97歳で大病を患いながらも、現在も元気な瀬戸内寂聴さんが、「私にとって幸せとは死ぬまで好きなことをやり続けること」とテレビで話しておられました。彼女の話や思いは多くの人を惹き付け、生きる勇気と希望を、それもさりげなく、時にはユーモラスに伝えておられます。年齢を重ね、病気を重ね、すべて頂いたものを神に返して自身は空っぽになりながらも、一方でどれ程心の落ち着き、安らぎといったお金では買えないものを頂いていることでしょう。私にとっては大きな励ましと救いでした。目には見えない豊かさがヒシヒシと感じられました。持っているすべてを破壊され、流されてしまった後に残るものは諦めや絶望感ではなく、新たな希望と逞しさなのです。私たち人間の目には実りは何もないと思っても、何もない中にこそ豊かな収穫があることに、苦しい日々は気付ける目と心が養われたのかもしれません。Barack Obamaは「私たちは、息をしている間、希望します」と言いました。
 そして、聖パウロは「見えるものに対する希望は希望ではありません。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:24)と言っています。間もなくお迎えする教皇様の38年ぶりの訪日という貴重な目に見える形を通して、何を神からのメッセージとして受け止めることが出来るでしょうか。
 ロザリオの月であるこの10月に、聖母マリアと共に、ロザリオの祈りの力に支えられる私たちです。「涙のうちに種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」という忍耐力と希望を持って、日々の生活の中のどんな出来事にも示される神のみ旨を感じ豊かに生きることが出来ますように、祈って参りましょう。


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2019.10.05 Saturday
cross.png 9月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
再び「だん・しゃ・り」を!

 八月後半に、アマゾンの大規模森林火災によって「地球の肺」と呼ばれるアマゾンの広範囲の緑が消失されました。また猛烈な暑さが長く続いた日本の夏でした。そして更に「これまでに経験したことのないような大雨になる」と頻繁に呼びかけられる報道がありました。この異常気象をきっかけに人間の私たちは、自然環境を無視していることを深く反省して、自然を大切に育むために責任を取らなければなりません。
 教皇フランシスコは毎年九月の第一日曜日を「被造物を大切にする祈願日」と定めておられます。恵まれたこの地に住んでいる私たちは自然の脅威に脅かせられながらも、何とか2ヶ月以上続いてきた暑い夏の季節を秋の気配の中で乗り越えようとしています。九月という夏の締めくくりの時期は「食欲の秋」「収穫の秋」を迎える為には、やるべき事をやらなくてはなりません。
 葡萄や梨などの実りを楽しみにする季節を考えますと、農業の分野では、どれ程水の大切さ、栄養の必要性を知っていても、ただ水を注ぎ栄養を与えているだけなら、葉を育てることは出来ても、実をつけさせることは出来ません。因みに、私は植物の緑色が大好きです。司祭館で沢山の植物を育て、日々葉の色が濃くなることを楽しんでいます。野菜や果物を栽培する人々にとっては、葉の色が濃くならず、実も出来なければ、死活問題です。農家の人々は一番良いものを収穫する為に勇気を持って、どんなに綺麗な葉であっても、キラキラ光る小さな実でも間引いて、捨てることで、初めて一番大切なものを蓄える力が大きくなり、より美味しく、実らせることが出来るのです。自然界においても、良い実りの為には断わる・捨てる・離れる、つまり「だん・しゃ・り」が必要なのです。秋の新学期を迎える子供たちも運動会の準備等を通して、自分の怠け心・弱い心を捨て、皆と協力して団体行動や健康な体作りの大切さを知る良い機会です。
 正にキリスト者も、イエスに従っていく時に、この自然界を見倣って、妨げるものを断ち、捨て去り、離れることで一層成熟して行きたいものです。この「断捨離」は勿論、私たちの力や技術だけで行うものではなく、聖霊の働き、神の力に助けられながら行い、悪いものを乗り越え、豊かに実らせることが出来るのです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(ヨハネ15:1‐2a)というイエスの言葉を心に留めたいと思います。九月の秋の爽やかさと豊かな実りを待ち望みながら、自分の生活の中で勇気を持って、自分にとっての、キリスト者としての「だん・しゃ・り」を捧げて参りましょう。


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2019.09.16 Monday
cross.png 7月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
命の水を汲み取ろう。

 夏本番が近づいてくるにつれて、ジメジメとして蒸し暑いのは毎年のことで私たちは覚悟していても、今年は想定外の雨が多く、思いがけない大雨の九州、また一方では、水不足や枯渇に悩まされている地域などもあります。やはり夏になると私たちの頭の中は水のことで占められると云っても過言ではないようです。
 一年のどんな時より、自然界の樹々や草花や葉っぱが濃くイキイキと元気に輝いている時です。その輝きの為にも湿度と共に水分は不可欠です。私たち人間もまたこの時期は、どんな時より水分補給を第一に考えるよう何度も言われ、命にかかわる熱中症に罹らないように注意をしています。水なしでは命に関わり、生きることが出来なくなります。水は私たちの生活そのものを反映していると言えるかもしれません。どんなに滾々と湧く水も涸れてしまう時があるように、どんなに沢山のものを持っていても、ある日突然全てが無くなってしまう時もあります。また日々の生活の中でどんなに頑張っても出来ない事もあります。そんな時は、何とかして無くなったもの足りないものを補充して補わなくてはなりません。品物や食べ物は何とかなるでしょうが、私たちの心に潤いが足りなくなり、涸れてしまったら、どうすればよいのでしょうか。
 「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源は溢れ出て広場に幾筋もの流れが出来るであろう。」(箴言5:15₋17)と記されている通り、キリストに従って行く私たちは、何より、日々の祈り、特に典礼に参加することによって、神から頂いた命の泉、永遠の水という恵みに満たされます。だから私たちの体に水分が欠かせないように、ミサで命の水を与えられる事は、必要不可欠なのです。
 日本の夏は湿度が高く、外出することを避けたくなる私たちですが、湿度があるからこそ、水分があり、生きるものを活かしていくことが出来ます。キリスト者も「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37)というイエスの招きを信じて、私たちが出来る「感謝と賛美の祈り」に出来るだけ集い、仲間と共にキリストとに繋がって行きましょう。厳しくなる暑さに向いますが、この夏の時を豊かな実りに変えて、永遠の命に至る水を汲み取りましょう。


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2019.07.07 Sunday

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