cross.png 12月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
恵みを待ち望みながら…

 12月に入り、季節は冬に向かっていますが、季節外れの暖かさで、まだまだ冬本番はもう少し先のようです。さて、私はこんな興味深い物語を見つけました。

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 小さな一つの部屋で四本のローソクが自分の灯りを灯していました。この部屋はローソクたちの囁きが聞こえる程とても静かでした。
 一番目のローソクが嘆き悲しみながら言いました。《私は平和のしるしです。でも、今この世の中は銃や剣は無くならず、争いがない時はありません。それは国同士だけではなく、大切な愛すべき夫婦や兄弟や友人同士でも起きています。私は役に立てず、ふらふらとさまよい歩いているだけです。》話しているうちに灯火はどんどん小さくなり、弱って消えてしまいそうでした。
 二番目のローソクは、何度も首を傾げながら、絶望しているかのように言いました。《私は信仰のしるしです。でも、今の世の中の風潮に流されていたら、私はもう要らなくなり、無用の長物になってしまいます。》話しているうちに、彼も徐々に小さくなって、ノスタルジックな白い煙を放ち、今にも消えそうでした。
 三番目のローソクは、文句たらたらで言いました。《私は愛のしるしです。でも人の為に暗闇を照らす力もない。人々も私を放って置き、私の価値を知ろうともしない。この世を見ていると、人は自分の身近な人さえも愛することが出来ないようです》話が終わると、三本とも完全に消えてしまいました。
 突然一人の少女が部屋に入って来て言いました。《あなたがたは、どうして灯りを灯さないの?この世はどれ程あなたたち・平和・信仰・愛を必要として、何時までもそれを照らしてほしいと願っているでしょう。》
 残りの一本は、暗闇の中の孤独な星のように密やかに応えました。《心配ありません。私は希望です。私が灯火を灯してさえいれば小さくても、弱い火でも平和・信仰・愛の光りを灯し続けることが出来るのです…。》
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 一般的なカレンダーでは、クリスマスシーズンを経て年末となり一年が終わりますが、キリスト教では、新たな一年の典礼暦が待降節から始まります。待降節と言えば、その時を現すシンボルとしてアドヴェント・ローソクが聖堂の内陣におかれる習慣があります。
 一年の始まりに当たり、教会が使う典礼の色は喜びに満ち溢れる荘厳な白ではなく希望のうちにも落ち着きを表す紫です。待降節は希望の時です。一年は希望から始まります。私たちは希望(待降節第一主日)があるから少しずつ平和(第二主日)と繋がり、未来にある目的を喜び(第三主日)で味わう事で信仰を深め、一層愛(第四主日)に生きる事が出来るのです。
 慌ただしい12月だからこそ、私たちは掛け替えのない神の子として「主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に」(詩篇33:22)という神の言葉を胸に刻み「豊かにあふれさせてくださいますように」と待ち望みましょう。何故なら全て「神の恵み」だからです。


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2018.12.01 Saturday
cross.png 11月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
命を生み出す死

 11月に入り、塩害もあってか、樹々の葉もどんどん落ちて間もなく裸になってしまいそうです。この寂しい光景を見ますと、私は、葉と枝はこんなやり取りをしているのではないかと思います。一枚の葉が「ああ、だんだん皆落ちて行ってしまう。恐いなあ、僕は落ちたくないなあ。もう少しだけここに居させてくれないかなあ。」と枝に言いました。枝も「葉っぱちゃん、ごめんなさい。いつまでもここで葉っぱちゃんを守ってあげたいけど、僕もあなたも両方ともダメになってしまうよ。仕方がないよ。ごめんね。」と気の毒そうに答えました。こうして葉は枝の為に身を捧げて次の葉を芽吹かせ、更に、その樹自体を豊かに実らせていくのです。これが自然界の摂理です。
 自然災害は、日本のみならず世界の各地も大きな被害を受け苦しんでいます。特にインドネシアの地震、津波による犠牲者の数は増える一方で、私たちは改めて生命の大切さを痛感しています。亡くなった人々もどんなにか淋しい事でしょう。何も出来ずに、全てをありのままに委ねるのみですから。生き残ってこれからもなお生きて行く人々の心も一層重く痛みます。でもどんなに大変な悲しみの中にあっても亡くなった人の分まで復活への希望を持って強く生きるのです。
お墓参り 教会は一年間の典礼暦の締めくくりとして11月を「死者の月」と定め、命の大切さに心を留め復活への信仰を新たにします。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(1テサロニケ4:14)というパウロの確信は私たちの信仰を表すものです。つまり、この世の終わりで終るのではなく、新たな形で生き続けます。
 ですから教会は「信じる者にとって、死は滅びではなく新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」と、堂々と宣言しています。または「死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。」と教会のカテキズム1013号に断言されています。教会は私たちに世の終わりである死を恐れることより「死の神秘」を味わうように招いているのです。
 私の両親はよく「《死者の月》である11月は先に旅立った人のお正月です。亡くなった人は何も出来ないが、子供や愛する人が感謝と尊敬の願いを持って集まって来るこの時をどれ程喜び、温かい気持ちで待っていることか。勿論、生きている私たちもこの時期、大切な人の為に祈る、という形の贈り物をします。」と言います。亡くなった人々は正に希望への扉の前にあって、生きている私たちの日々の犠牲と祈り、何よりミサを通して、神の子イエスの十字架上の生け贄によって清められる事を待っているのです。何故なら「ミサよりも神を喜ばせる祈りや善い行いはありません」と聖ローレンス・ジュスチニアーによって教えられたからです。だから、私の母はどんな時より、この11月には、よくお墓参りをし、ミサを頼んでいました。今年もきっとそうするでしょう。
 聖モニカは息を引き取る前に、聖アウグスティヌスをはじめ、子供たちに「どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ。」という願いをしました。
 「死者の月」は、全ての死者を思い巡らし、日々の祈りの中で「主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。彼らの安らかに憩わんことを。ア一メン」と心を込めて祈りを捧げましょう。一粒の麦のように、死んでもそれで終わりではなく、新しい命が生まれて来るのを確信して、私たちが復活信仰を新たにして旅を続けて生きて参りましょう。
お墓参りお墓参り
 ベトナムではまだ土葬です。墓地は人里離れたところにあり、普段は人はあまり訪れません。しかし、教会の習慣では、11月2日から8日までの間、昼間だけではなく夜遅くまでもお墓参りをしてお花を飾り、特にローソクを灯して明るい中で死者の永遠の安らぎをお祈りします。まさに、復活への希望を表すしるしです。



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2018.11.10 Saturday
cross.png 10月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
豊かな刈り入れの時

 ようやく秋の気配を感じるようになって来ました。今年の夏は信じられないような数々の自然の異常現象が多くて、言葉で言い表せない程心身共に疲れ切ってしまいました。まだ傷跡と共に悲しみが残っています。しかし一方では、こんな非常時に、目を見張るような出来事が報道されていて驚いてしまいました。北海道での大地震の後、利益第一である筈のレストランでは無料で食事が出され、ホテルではただで温泉へ入ることが許可され、商店では温かいスープなどが提供されていたのです。1ヶ月が過ぎましたが、町民もフリーマーケットという形で支え合っているのです。こんな時ならば、幾らでも高くして儲ける事が出来るのに、本当に立派な態度です。誰もが大変な状況の時に利益を度外視して只々助け合う姿を見ていると、大災害のもたらした悲惨さが人々の心を強くして絆を深めているのを感じました。自然災害に遭う事は大変なことです。でも、その中でこれ程温かく美しい人間の心を見る事ができたのは、奇跡です!人々の絆・繋がりは大きな実りです。
 さて皆さん「一体あなたの持っている物で頂かなかったものがあるでしょうか。」(1コリント4:7)というこの問いを心に留めてみてください。人間は生れた時からその存在すべてが借りるところから始まっています。その借りたものを返す事が生きることなのです。私たちは他者に与えなければ収穫する事は出来ないのです。生きるためには、自分が受けるより与え続けていくことが必要です。そこに思いがけないもの、本来の人間の心が生まれてくるのです。特にキリスト者はこのことに召されています。
 教会典礼に於いて「ロザリオの10月」を迎え、わがままを優先しがちな私たちも教皇レオ13世の言葉「ロザリオは社会を害する悪と戦うための効果的な霊的武器である」を意識しながらロザリオの祈りの力に信頼して自分のためだけではなく他者のためにも時間を費やして祈って下さい。機械文明のただ中にある私たちキリスト者の心も豊かになり、恵みを頂く事が出来るでしょう。自分が与える事の出来るものには限りがありますが、得られるものには限りがありません。
 「ロザリオの祈り」を一つの鐘と譬えるとすれば「アヴェ・マリア」の一つ一つの鐘を高らかに鳴らして、願って行きましょう。この祈りを繰り返し唱えることによって、鐘の音は大きくなり、私たちの願いは直接神の元に届き、受け入れられるのです。さあ皆さん「人生のリズムを刻む単純な祈りであるロザリオ」を祈りましょう。



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2018.10.21 Sunday
cross.png 9月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
つぼみ程の希望

 自然が巡って夏になると、暑くなるのは当然です。しかし今年はいろんな国の人々が、予想出来ない程の異常気象で危険な暑さや大雨などで大変苦しめられました。これでも9月だろうかと思う程の暑さが続いています。季節は秋へと確実に向かっているのです。同じ気温であっても秋と聞くと秋風のひんやりしたものが感じられます。本当に不思議です。
 さて、貴重な休日の多い8月を皆さんはどのように過ごされましたか。厳しい猛暑をしのぐため、テレビでも様々な方法やグッズが紹介されていました。私たち自身も恐らく目・耳など五感で、少しでもヒンヤリした涼感を得るための工夫を色々とした事でしょう。そういう意味では異常な暑さを少しでも快適に、また健康に過ごすための良いアイディアを生み出すための一つの機会だったと言えるかもしれません。
 社会の中でも様々な問題が起りました。医学部を目指す女子受験生の点数を意図的に低くしたり、若者が心身共に健全に成長して行くためのスポーツを指導者である大人が好き勝手に利用したりと、目を覆いたくなるような事実が報道されました。自然に対しては工夫してうまく生きている人間も、社会にあっては、自分自身の心地良さのためだけの工夫をしている人がいるのです。自然が与えた厳しい暑さも秋の実りには欠く事の出来ない大切なものであるように、私たち人間の社会でもしっかり目を覚まして工夫してより良い社会貢献をして歩みたいものです。
 信仰の面でも私たちは工夫して行かなければなりません。しっかり意識していないと、目に見えない信仰の中の大切なものが失われて行くようです。その為に、9月の典礼では、14日に「十字架の称賛」が祝われます。十字架を称賛するのは意味があるからで、偶然ではありません。一年の典礼暦の中に用意されているのです。私たちが礼拝する対象は十字架ですが、苦しみではありません。むしろ、その苦しみの中の喜びです。私たちには、十字架の上に花を咲かせる希望があるのです。十字架は救いの道であり、希望を与える神の愛への招きです。十字架の上で自らを犠牲にしたイエスの姿に愛を見ることが出来ます。ですから、聖パウロは誇りを以って「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:2)と明言しているのです。
 キリストが苦しみや死を受け入れたのは、苦しみや死が人生の目的だからではなく、むしろ「神の子であるイエス・キリストがこの世に来たのは苦しみを滅ぼし、この十字架を排除するためなのではなく、我々と共に苦しみを受け、この十字架に我々と共にかけられる為である」のです。
 今年の暑さも、自然災害も、様々な試練や問題などは一つの十字架です。それらの十字架を称賛に値するものへ変えて行くには、工夫しなければなりません。そのためにはただ「今、しばらくの間、いろいろな試練に苦しまなければならなくても、心から喜べ。試練を経たあなたがたの信仰は金よりもはるかに尊い」(1ペトロ1:7)という言葉を信頼して生きたいと思います。



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2018.10.21 Sunday
cross.png 7月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
半端なく価値ある時を生きる!

 ジメジメしたこの梅雨の季節の中でも、ロシアで開かれているワールドカップ・サッカーに日夜心を躍らせている人も多い事でしょう。何より日本チームの初戦突破は、半端ない大きな喜びを与えてくれました。約一ヶ月間続くこの大会の為に世界中のサッカー選手を始めどれ程多くの関係者が心血を注ぎ、多くの時間をかけて準備をした事でしょう。
 早くも今年の一年の半分が過ぎてしまいました。私たちがどれ程意義のある時間を大切に使って生きているか、ネット上からの情報を通しても考えさせられます。
 「もしあなたが4年間の価値を知りたいなら大学を卒業した人に聞きなさい。1年間の価値は、1年から2年への進級試験に落第した学生さんに聞きなさい。一ヶ月の価値は、初めての子供を出産した妊婦さんに聞きなさい。1週間の価値は、週刊誌の編集者に聞きなさい。1時間の価値は、直ぐにまた会いたいと思っている恋人たちに聞きなさい。1分の価値は、電車に乗り遅れたビジネスマンに聞きなさい。1秒の価値は、事故を免れた生存者に聞きなさい。1000分の1秒の価値は、オリンピック大会で優勝した選手に聞きなさい。時間は誰をも待ってくれません。一瞬一瞬に無限の価値があるのです。」
 自然界では、厳しい暑さと共に、本格的な夏が始まり、教会でも、年間の道のりに深く入って行きます。教会典礼に於ける「年間」は変化のない平凡な日々ではなく、復活祭に洗礼を受けた方々の信仰の深まりと共にこの時期の草花のように伸び伸びと成長する時なのです。皆さんは、これから迎える夏の季節を有意義に過ごす為に夏休みの計画を考えておられますか。何もかもが素早く過ぎ去ってしまうような時の流れの中で聖マザーテレサの言葉を思い巡らしたいと思います。「昨日は既に過ぎ去った過去、明日はまだ来ない未来、今日だけが、正に今与えられた時なのだから、活き活きと生き始めましょう。」という言葉です。つまり「今」をこそ「今」だけをためらうことなく、半端なく生き抜いて生きられるという事なのです。
 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ3:8)という使徒ペトロの確信は半端なく、特に日々与えられているこの時間の中でも典礼やミサの時、いわば、神のみ前にある一時こそ、この「今」の価値や大事さを確かめる時なのです。何より「人々がミサに行く全ての足取りは天使に数えられており、この世においても、また次の人生においても、神からより良い報酬を受けるでしょう。」という聖アウグスチヌスの言葉から分かるように、猛暑の中にミサに参加する私たちは、大きな励ましと力付けを頂く事でしょう。私たちは個人的にも、教会共同体としても、一瞬一瞬を神に生かされているのです。生かされている時を活き活きと生きる事が出来ますように、共に願って参りましょう。



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2018.07.08 Sunday

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