cross.png 11月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
命を生み出す死

 11月に入り、塩害もあってか、樹々の葉もどんどん落ちて間もなく裸になってしまいそうです。この寂しい光景を見ますと、私は、葉と枝はこんなやり取りをしているのではないかと思います。一枚の葉が「ああ、だんだん皆落ちて行ってしまう。恐いなあ、僕は落ちたくないなあ。もう少しだけここに居させてくれないかなあ。」と枝に言いました。枝も「葉っぱちゃん、ごめんなさい。いつまでもここで葉っぱちゃんを守ってあげたいけど、僕もあなたも両方ともダメになってしまうよ。仕方がないよ。ごめんね。」と気の毒そうに答えました。こうして葉は枝の為に身を捧げて次の葉を芽吹かせ、更に、その樹自体を豊かに実らせていくのです。これが自然界の摂理です。
 自然災害は、日本のみならず世界の各地も大きな被害を受け苦しんでいます。特にインドネシアの地震、津波による犠牲者の数は増える一方で、私たちは改めて生命の大切さを痛感しています。亡くなった人々もどんなにか淋しい事でしょう。何も出来ずに、全てをありのままに委ねるのみですから。生き残ってこれからもなお生きて行く人々の心も一層重く痛みます。でもどんなに大変な悲しみの中にあっても亡くなった人の分まで復活への希望を持って強く生きるのです。
お墓参り 教会は一年間の典礼暦の締めくくりとして11月を「死者の月」と定め、命の大切さに心を留め復活への信仰を新たにします。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(1テサロニケ4:14)というパウロの確信は私たちの信仰を表すものです。つまり、この世の終わりで終るのではなく、新たな形で生き続けます。
 ですから教会は「信じる者にとって、死は滅びではなく新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」と、堂々と宣言しています。または「死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。」と教会のカテキズム1013号に断言されています。教会は私たちに世の終わりである死を恐れることより「死の神秘」を味わうように招いているのです。
 私の両親はよく「《死者の月》である11月は先に旅立った人のお正月です。亡くなった人は何も出来ないが、子供や愛する人が感謝と尊敬の願いを持って集まって来るこの時をどれ程喜び、温かい気持ちで待っていることか。勿論、生きている私たちもこの時期、大切な人の為に祈る、という形の贈り物をします。」と言います。亡くなった人々は正に希望への扉の前にあって、生きている私たちの日々の犠牲と祈り、何よりミサを通して、神の子イエスの十字架上の生け贄によって清められる事を待っているのです。何故なら「ミサよりも神を喜ばせる祈りや善い行いはありません」と聖ローレンス・ジュスチニアーによって教えられたからです。だから、私の母はどんな時より、この11月には、よくお墓参りをし、ミサを頼んでいました。今年もきっとそうするでしょう。
 聖モニカは息を引き取る前に、聖アウグスティヌスをはじめ、子供たちに「どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ。」という願いをしました。
 「死者の月」は、全ての死者を思い巡らし、日々の祈りの中で「主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。彼らの安らかに憩わんことを。ア一メン」と心を込めて祈りを捧げましょう。一粒の麦のように、死んでもそれで終わりではなく、新しい命が生まれて来るのを確信して、私たちが復活信仰を新たにして旅を続けて生きて参りましょう。
お墓参りお墓参り
 ベトナムではまだ土葬です。墓地は人里離れたところにあり、普段は人はあまり訪れません。しかし、教会の習慣では、11月2日から8日までの間、昼間だけではなく夜遅くまでもお墓参りをしてお花を飾り、特にローソクを灯して明るい中で死者の永遠の安らぎをお祈りします。まさに、復活への希望を表すしるしです。



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2018.11.10 Saturday
cross.png 10月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
豊かな刈り入れの時

 ようやく秋の気配を感じるようになって来ました。今年の夏は信じられないような数々の自然の異常現象が多くて、言葉で言い表せない程心身共に疲れ切ってしまいました。まだ傷跡と共に悲しみが残っています。しかし一方では、こんな非常時に、目を見張るような出来事が報道されていて驚いてしまいました。北海道での大地震の後、利益第一である筈のレストランでは無料で食事が出され、ホテルではただで温泉へ入ることが許可され、商店では温かいスープなどが提供されていたのです。1ヶ月が過ぎましたが、町民もフリーマーケットという形で支え合っているのです。こんな時ならば、幾らでも高くして儲ける事が出来るのに、本当に立派な態度です。誰もが大変な状況の時に利益を度外視して只々助け合う姿を見ていると、大災害のもたらした悲惨さが人々の心を強くして絆を深めているのを感じました。自然災害に遭う事は大変なことです。でも、その中でこれ程温かく美しい人間の心を見る事ができたのは、奇跡です!人々の絆・繋がりは大きな実りです。
 さて皆さん「一体あなたの持っている物で頂かなかったものがあるでしょうか。」(1コリント4:7)というこの問いを心に留めてみてください。人間は生れた時からその存在すべてが借りるところから始まっています。その借りたものを返す事が生きることなのです。私たちは他者に与えなければ収穫する事は出来ないのです。生きるためには、自分が受けるより与え続けていくことが必要です。そこに思いがけないもの、本来の人間の心が生まれてくるのです。特にキリスト者はこのことに召されています。
 教会典礼に於いて「ロザリオの10月」を迎え、わがままを優先しがちな私たちも教皇レオ13世の言葉「ロザリオは社会を害する悪と戦うための効果的な霊的武器である」を意識しながらロザリオの祈りの力に信頼して自分のためだけではなく他者のためにも時間を費やして祈って下さい。機械文明のただ中にある私たちキリスト者の心も豊かになり、恵みを頂く事が出来るでしょう。自分が与える事の出来るものには限りがありますが、得られるものには限りがありません。
 「ロザリオの祈り」を一つの鐘と譬えるとすれば「アヴェ・マリア」の一つ一つの鐘を高らかに鳴らして、願って行きましょう。この祈りを繰り返し唱えることによって、鐘の音は大きくなり、私たちの願いは直接神の元に届き、受け入れられるのです。さあ皆さん「人生のリズムを刻む単純な祈りであるロザリオ」を祈りましょう。



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2018.10.21 Sunday
cross.png 9月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
つぼみ程の希望

 自然が巡って夏になると、暑くなるのは当然です。しかし今年はいろんな国の人々が、予想出来ない程の異常気象で危険な暑さや大雨などで大変苦しめられました。これでも9月だろうかと思う程の暑さが続いています。季節は秋へと確実に向かっているのです。同じ気温であっても秋と聞くと秋風のひんやりしたものが感じられます。本当に不思議です。
 さて、貴重な休日の多い8月を皆さんはどのように過ごされましたか。厳しい猛暑をしのぐため、テレビでも様々な方法やグッズが紹介されていました。私たち自身も恐らく目・耳など五感で、少しでもヒンヤリした涼感を得るための工夫を色々とした事でしょう。そういう意味では異常な暑さを少しでも快適に、また健康に過ごすための良いアイディアを生み出すための一つの機会だったと言えるかもしれません。
 社会の中でも様々な問題が起りました。医学部を目指す女子受験生の点数を意図的に低くしたり、若者が心身共に健全に成長して行くためのスポーツを指導者である大人が好き勝手に利用したりと、目を覆いたくなるような事実が報道されました。自然に対しては工夫してうまく生きている人間も、社会にあっては、自分自身の心地良さのためだけの工夫をしている人がいるのです。自然が与えた厳しい暑さも秋の実りには欠く事の出来ない大切なものであるように、私たち人間の社会でもしっかり目を覚まして工夫してより良い社会貢献をして歩みたいものです。
 信仰の面でも私たちは工夫して行かなければなりません。しっかり意識していないと、目に見えない信仰の中の大切なものが失われて行くようです。その為に、9月の典礼では、14日に「十字架の称賛」が祝われます。十字架を称賛するのは意味があるからで、偶然ではありません。一年の典礼暦の中に用意されているのです。私たちが礼拝する対象は十字架ですが、苦しみではありません。むしろ、その苦しみの中の喜びです。私たちには、十字架の上に花を咲かせる希望があるのです。十字架は救いの道であり、希望を与える神の愛への招きです。十字架の上で自らを犠牲にしたイエスの姿に愛を見ることが出来ます。ですから、聖パウロは誇りを以って「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:2)と明言しているのです。
 キリストが苦しみや死を受け入れたのは、苦しみや死が人生の目的だからではなく、むしろ「神の子であるイエス・キリストがこの世に来たのは苦しみを滅ぼし、この十字架を排除するためなのではなく、我々と共に苦しみを受け、この十字架に我々と共にかけられる為である」のです。
 今年の暑さも、自然災害も、様々な試練や問題などは一つの十字架です。それらの十字架を称賛に値するものへ変えて行くには、工夫しなければなりません。そのためにはただ「今、しばらくの間、いろいろな試練に苦しまなければならなくても、心から喜べ。試練を経たあなたがたの信仰は金よりもはるかに尊い」(1ペトロ1:7)という言葉を信頼して生きたいと思います。



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2018.10.21 Sunday
cross.png 7月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
半端なく価値ある時を生きる!

 ジメジメしたこの梅雨の季節の中でも、ロシアで開かれているワールドカップ・サッカーに日夜心を躍らせている人も多い事でしょう。何より日本チームの初戦突破は、半端ない大きな喜びを与えてくれました。約一ヶ月間続くこの大会の為に世界中のサッカー選手を始めどれ程多くの関係者が心血を注ぎ、多くの時間をかけて準備をした事でしょう。
 早くも今年の一年の半分が過ぎてしまいました。私たちがどれ程意義のある時間を大切に使って生きているか、ネット上からの情報を通しても考えさせられます。
 「もしあなたが4年間の価値を知りたいなら大学を卒業した人に聞きなさい。1年間の価値は、1年から2年への進級試験に落第した学生さんに聞きなさい。一ヶ月の価値は、初めての子供を出産した妊婦さんに聞きなさい。1週間の価値は、週刊誌の編集者に聞きなさい。1時間の価値は、直ぐにまた会いたいと思っている恋人たちに聞きなさい。1分の価値は、電車に乗り遅れたビジネスマンに聞きなさい。1秒の価値は、事故を免れた生存者に聞きなさい。1000分の1秒の価値は、オリンピック大会で優勝した選手に聞きなさい。時間は誰をも待ってくれません。一瞬一瞬に無限の価値があるのです。」
 自然界では、厳しい暑さと共に、本格的な夏が始まり、教会でも、年間の道のりに深く入って行きます。教会典礼に於ける「年間」は変化のない平凡な日々ではなく、復活祭に洗礼を受けた方々の信仰の深まりと共にこの時期の草花のように伸び伸びと成長する時なのです。皆さんは、これから迎える夏の季節を有意義に過ごす為に夏休みの計画を考えておられますか。何もかもが素早く過ぎ去ってしまうような時の流れの中で聖マザーテレサの言葉を思い巡らしたいと思います。「昨日は既に過ぎ去った過去、明日はまだ来ない未来、今日だけが、正に今与えられた時なのだから、活き活きと生き始めましょう。」という言葉です。つまり「今」をこそ「今」だけをためらうことなく、半端なく生き抜いて生きられるという事なのです。
 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ3:8)という使徒ペトロの確信は半端なく、特に日々与えられているこの時間の中でも典礼やミサの時、いわば、神のみ前にある一時こそ、この「今」の価値や大事さを確かめる時なのです。何より「人々がミサに行く全ての足取りは天使に数えられており、この世においても、また次の人生においても、神からより良い報酬を受けるでしょう。」という聖アウグスチヌスの言葉から分かるように、猛暑の中にミサに参加する私たちは、大きな励ましと力付けを頂く事でしょう。私たちは個人的にも、教会共同体としても、一瞬一瞬を神に生かされているのです。生かされている時を活き活きと生きる事が出来ますように、共に願って参りましょう。



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2018.07.08 Sunday
cross.png 6月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
愛の器

 天候の不順さに、紫陽花は一週間も早く咲き、人間は適応出来ずに、体も心も驚き不調を訴える人が多いと聞きます。予想外の行動に駆り立てられて信じられないような事件を起こす人がいても、不思議な事ではないかもしれません。私たちは日々の生活から受けるストレスが、心の奥深い所でだんだんと重く積もっているのではないでしょうか。人の心を読み解く事は難しいと実感しております。こんな時「読む価値のある一冊の本は心」だという言葉を知りました。心はその人自身そのものを現しているからです。
 日常生活の中で時々体験する事ですが、本物そっくりの造花や、何処が違うのかとても分からないブランド品、騙されても仕方がないようなものが次々生み出されるのも技術の発展の一つかもしれませんが、本物を見分ける事はとても難しいと言わざるを得ません。しかし、心は「愛の器」と言われます。心を見るためには、どの位愛する事が必要でしょうか。愛すれば人の心が見えるのでしょうか。
 私たちの主であるイエスは「神の慈しみ深さ」を持っておられます。パウロが2コリント4~7で言われたように「私たちはこのような宝を土の器におさめています。」私たちキリスト者は壊れやすいものです。日々この器、心を大切にするだけでなく、綺麗にして更に、強く育まなければならないのです。何故なら、マルコ7:20~23にあるように「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て人を汚すのである。」と、人から出て来る12の罪は日々誰にもありがちな行いでしょう。
 「器は容れ物」ですが、ただこの器を大切にするだけではなく、きれいに強くしないと、器そのものを駄目にしてしまうのです。「愛の器」を綺麗に強くするために、私たちは、聖母マリアの月である五月には、イエスの生涯についてよく黙想し、六月のイエスのみ心へとバトンタッチします。
 教会カレンダーでは、6月はイエスの月「聖心の月」です。神の深い慈しみに導いてもらえます。イエスの脇腹から流れ出た水と血、この清めと養いによって、全世界が新たに生まれ変わり、愛に包まれるのです。これこそ、最後に人となられた神の子イエスが私たちに与え尽くされた愛なのです。十字架上のイエスの心は正に「愛を運ぶ器」です。
 私たちは日々主の許で、祈りやミサを通しキリストの器から溢れ出る愛を浴びて、清められ強くされます。だからこそ私たちは、すっかり癒され新しい力を得て、生まれ変わることができます。神を愛するイエスのように、神に対する炎の心を燃え立たせ、美しい神の手足として今日も働いて参りましょう。



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2018.07.08 Sunday

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