cross.png 2月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
感謝と喜びのうちに。

 暑いベトナムから2週間ぶりに帰って参りました。今年の日本の冬は寒くはあっても穏やかな冬の晴天が続いて有難い事と思っていました。しかし、反面インフルエンザの猛威の嵐の中、皆さんはどのように過ごしているのでしょうか。
 私事で恐縮ですが、この間、私の両親の結婚60周年、母の妹夫婦の50周年、叔父夫婦の25周年とお祝い事があり、大勢の人々と会い共に感謝のミサに与り、お祝いすることが出来ました。正に「私の為、また福音の為に家、兄弟、姉妹、母、父、畑を捨てたものは誰でも、今この世で迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け」(マルコ 10:24)というイエスの約束をヒシヒシと実感いたしました。
 そのミサを司式してくださったT司教様のお説教がとても印象に残りました。「一族の中で一度に、それも銀婚・金婚・ダイヤモンド婚というお祝いを重ねて迎える事は滅多にないことなので、大変驚き感動した。」そして「それこそ、結婚式の時に神のみ前で交わす誓約は神によって守られ、結婚生活の困難さも乗り越えることが出来る。」と強調されました。最後に「結婚生活そのものの中に司祭の奉献生活を生み出す土台と力がある。」とも言われました。 司教様の言葉を通して思い出す聖書箇所があります。それは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント 12:9)です。この聖書箇所の意味を身をもって教えてくれたのは両親の姿です。
 10年にも満たない私自身の司祭生活にも苦しい事、辛い事は沢山ありました。まして60年間男ばかり8人の子供と2人の男の養子を育てる事は体の弱い母にとってどれ程大変だった事かと言葉もありません。寡黙な父はその母をとても大切にしていました。どちらかと言うと、子供たちは父より母の方が親しみやすく甘えたがります。だから父親的には寂しかったかもしれません。でもそれぞれの弱点を通してお互いを大切にして、乗り越えて生きて来たと思います。両親が結婚生活を通して様々な犠牲を捧げて奉献生活を送って、私への模範を示してくれていたという事だと思います。結婚生活において「捨」てる事は、奉献生活においては、神が「拾」ってくださるという事だと思います。家庭崩壊が数多く見られる現代にあって、神のみ前での結婚の誓約を私たちは決して忘れてはなりません。
 ベトナムへの帰国は喜びと共に私の奉献生活への覚悟を新たにしてくれました。そんな私の気持ちを知っていたかのように、日本は凛とした寒さで、私の気持ちを更に引き締めてくれたようでした。日本の四季折々は私の日常生活と切り離すことは出来ません。特に1年の中でも2月は何もかもすべてが冷たさの中に静まり返っているようです。しかし冷たく思える土の中でも温かさを保ち1年の土台を作り、春という季節への芽吹きの準備が行われている時です。冷たさばかりに気を取られてその中にある喜びの恵みを受け止める心を失くさないように祈りましょう。


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2019.02.11 Monday
cross.png 1月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
そだねー

 新年明けましておめでとうございます。クリスマス直前に何の前触れもなく起ったインドネシアの津波には「平和の君」も驚かれた事でしょう。昨年を振り返りますと正に年末に選ばれた「災」という一字は誰の胸にも浮かんでくると思います。2018年は本当に災害の多い年でした。西日本豪雨や異常な厳しい夏の暑さ、また北海道地震、連続した巨大な台風等次々とありました。悲惨な出来事の度に、誰もが心深く傷つきました。でも大変な中にあっても、世界で起きた良い事嬉しい事にどれ程支え救われた事でしょうか。私の場合は、2月に韓国の平昌で行われたオリンピックで、初めて銅メダルを獲得した女子カーリングの選手たちの活躍でした。彼女たちが試合中に度々発した「そだねー」という言葉が流行語大賞に選ばれた時はメダルの色以上の喜びを感じました。
 「そだねー」と「災」の二つは関係ないように聞こえますが、この二つの言葉には、深い所で繋がっています。私たちの歩んで行く道と関係があるのです。私たちは、全てをありのままに受け入れた時、初めて新たな次の一歩を踏み出す事が出来るのです。ベトナム出身の私には「そだねー。」と言う言葉は耳に心地良く、何かいい感じで肯定的な感じに響きました。この言葉は北海道特有の言葉だそうです。素朴で自然で暖かい雰囲気のある言葉です。大変な試合中も仲良くお互いを支え合っていかなければ「災」つまり試合という緊張する場面を乗り越える事は出来ません。「そだねー」にはホッとして更なる力を引き出す事が出来るのだと思います。カーリング選手の活躍は応援していた人々をより励まし、逆に希望・勇気を貰った人も多かったのではないでしょうか。
 災の中にあっても「そだねー」と受け入れ合い、支え合い、それで一歩前に進むことが出来たと思うのです。日本の新しい年にはいつもとは異なる新しい事が待ち受けています。平和を希求して名付けられた「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味を持つ「平成」という30年続いた年号が間もなく終り、新たな年号になります。どんな年号になるのか興味深いです。どんなことがあっても「平和」が続き、より一層成熟して行く社会・国を私たちは心から願っています。
 私たちの教会も、毎年1月1日を「世界平和の日」として人となられた神の子イエス「平和の君」に聖母を通して平和を祈り求め、絶えず平和を大切に築いていく決意を新たにします。今年の教皇フランシスコ様のメッセージの中で「平和は、詩人シャルル・ペギーが語る希望、すなわち暴力という石の間で咲こうとする、か弱い花のようなものです。」と述べられています。第一の条件として相互の信頼なしに平和はあり得ません。私たちの共同体も一人ひとり平和を共有していく事の大切さを受け継ぎ、イエスが残してくださった「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える(ヨハネ 14:27)」をいつも心から願い「そだねー」と互いに受け入れ合い、支え合って信頼しながら一日一日を共に歩んで行く覚悟を致しましょう。新しい一年が希望に満ちあふれ神の恵みが豊かに注がれますよう切に願いながら元気な心で、一歩踏み出して参りましょう。


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2019.01.01 Tuesday
cross.png 12月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
恵みを待ち望みながら…

 12月に入り、季節は冬に向かっていますが、季節外れの暖かさで、まだまだ冬本番はもう少し先のようです。さて、私はこんな興味深い物語を見つけました。

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 小さな一つの部屋で四本のローソクが自分の灯りを灯していました。この部屋はローソクたちの囁きが聞こえる程とても静かでした。
 一番目のローソクが嘆き悲しみながら言いました。《私は平和のしるしです。でも、今この世の中は銃や剣は無くならず、争いがない時はありません。それは国同士だけではなく、大切な愛すべき夫婦や兄弟や友人同士でも起きています。私は役に立てず、ふらふらとさまよい歩いているだけです。》話しているうちに灯火はどんどん小さくなり、弱って消えてしまいそうでした。
 二番目のローソクは、何度も首を傾げながら、絶望しているかのように言いました。《私は信仰のしるしです。でも、今の世の中の風潮に流されていたら、私はもう要らなくなり、無用の長物になってしまいます。》話しているうちに、彼も徐々に小さくなって、ノスタルジックな白い煙を放ち、今にも消えそうでした。
 三番目のローソクは、文句たらたらで言いました。《私は愛のしるしです。でも人の為に暗闇を照らす力もない。人々も私を放って置き、私の価値を知ろうともしない。この世を見ていると、人は自分の身近な人さえも愛することが出来ないようです》話が終わると、三本とも完全に消えてしまいました。
 突然一人の少女が部屋に入って来て言いました。《あなたがたは、どうして灯りを灯さないの?この世はどれ程あなたたち・平和・信仰・愛を必要として、何時までもそれを照らしてほしいと願っているでしょう。》
 残りの一本は、暗闇の中の孤独な星のように密やかに応えました。《心配ありません。私は希望です。私が灯火を灯してさえいれば小さくても、弱い火でも平和・信仰・愛の光りを灯し続けることが出来るのです…。》
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 一般的なカレンダーでは、クリスマスシーズンを経て年末となり一年が終わりますが、キリスト教では、新たな一年の典礼暦が待降節から始まります。待降節と言えば、その時を現すシンボルとしてアドヴェント・ローソクが聖堂の内陣におかれる習慣があります。
 一年の始まりに当たり、教会が使う典礼の色は喜びに満ち溢れる荘厳な白ではなく希望のうちにも落ち着きを表す紫です。待降節は希望の時です。一年は希望から始まります。私たちは希望(待降節第一主日)があるから少しずつ平和(第二主日)と繋がり、未来にある目的を喜び(第三主日)で味わう事で信仰を深め、一層愛(第四主日)に生きる事が出来るのです。
 慌ただしい12月だからこそ、私たちは掛け替えのない神の子として「主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に」(詩篇 33:22)という神の言葉を胸に刻み「豊かにあふれさせてくださいますように」と待ち望みましょう。何故なら全て「神の恵み」だからです。


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2018.12.01 Saturday
cross.png 11月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
命を生み出す死

 11月に入り、塩害もあってか、樹々の葉もどんどん落ちて間もなく裸になってしまいそうです。この寂しい光景を見ますと、私は、葉と枝はこんなやり取りをしているのではないかと思います。一枚の葉が「ああ、だんだん皆落ちて行ってしまう。恐いなあ、僕は落ちたくないなあ。もう少しだけここに居させてくれないかなあ。」と枝に言いました。枝も「葉っぱちゃん、ごめんなさい。いつまでもここで葉っぱちゃんを守ってあげたいけど、僕もあなたも両方ともダメになってしまうよ。仕方がないよ。ごめんね。」と気の毒そうに答えました。こうして葉は枝の為に身を捧げて次の葉を芽吹かせ、更に、その樹自体を豊かに実らせていくのです。これが自然界の摂理です。
 自然災害は、日本のみならず世界の各地も大きな被害を受け苦しんでいます。特にインドネシアの地震、津波による犠牲者の数は増える一方で、私たちは改めて生命の大切さを痛感しています。亡くなった人々もどんなにか淋しい事でしょう。何も出来ずに、全てをありのままに委ねるのみですから。生き残ってこれからもなお生きて行く人々の心も一層重く痛みます。でもどんなに大変な悲しみの中にあっても亡くなった人の分まで復活への希望を持って強く生きるのです。
お墓参り 教会は一年間の典礼暦の締めくくりとして11月を「死者の月」と定め、命の大切さに心を留め復活への信仰を新たにします。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(1テサロニケ 4:14)というパウロの確信は私たちの信仰を表すものです。つまり、この世の終わりで終るのではなく、新たな形で生き続けます。
 ですから教会は「信じる者にとって、死は滅びではなく新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」と、堂々と宣言しています。または「死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。」と教会のカテキズム1013号に断言されています。教会は私たちに世の終わりである死を恐れることより「死の神秘」を味わうように招いているのです。
 私の両親はよく「《死者の月》である11月は先に旅立った人のお正月です。亡くなった人は何も出来ないが、子供や愛する人が感謝と尊敬の願いを持って集まって来るこの時をどれ程喜び、温かい気持ちで待っていることか。勿論、生きている私たちもこの時期、大切な人の為に祈る、という形の贈り物をします。」と言います。亡くなった人々は正に希望への扉の前にあって、生きている私たちの日々の犠牲と祈り、何よりミサを通して、神の子イエスの十字架上の生け贄によって清められる事を待っているのです。何故なら「ミサよりも神を喜ばせる祈りや善い行いはありません」と聖ローレンス・ジュスチニアーによって教えられたからです。だから、私の母はどんな時より、この11月には、よくお墓参りをし、ミサを頼んでいました。今年もきっとそうするでしょう。
 聖モニカは息を引き取る前に、聖アウグスティヌスをはじめ、子供たちに「どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ。」という願いをしました。
 「死者の月」は、全ての死者を思い巡らし、日々の祈りの中で「主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らし給え。彼らの安らかに憩わんことを。ア一メン」と心を込めて祈りを捧げましょう。一粒の麦のように、死んでもそれで終わりではなく、新しい命が生まれて来るのを確信して、私たちが復活信仰を新たにして旅を続けて生きて参りましょう。
お墓参りお墓参り
 ベトナムではまだ土葬です。墓地は人里離れたところにあり、普段は人はあまり訪れません。しかし、教会の習慣では、11月2日から8日までの間、昼間だけではなく夜遅くまでもお墓参りをしてお花を飾り、特にローソクを灯して明るい中で死者の永遠の安らぎをお祈りします。まさに、復活への希望を表すしるしです。



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2018.11.10 Saturday
cross.png 10月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
豊かな刈り入れの時

 ようやく秋の気配を感じるようになって来ました。今年の夏は信じられないような数々の自然の異常現象が多くて、言葉で言い表せない程心身共に疲れ切ってしまいました。まだ傷跡と共に悲しみが残っています。しかし一方では、こんな非常時に、目を見張るような出来事が報道されていて驚いてしまいました。北海道での大地震の後、利益第一である筈のレストランでは無料で食事が出され、ホテルではただで温泉へ入ることが許可され、商店では温かいスープなどが提供されていたのです。1ヶ月が過ぎましたが、町民もフリーマーケットという形で支え合っているのです。こんな時ならば、幾らでも高くして儲ける事が出来るのに、本当に立派な態度です。誰もが大変な状況の時に利益を度外視して只々助け合う姿を見ていると、大災害のもたらした悲惨さが人々の心を強くして絆を深めているのを感じました。自然災害に遭う事は大変なことです。でも、その中でこれ程温かく美しい人間の心を見る事ができたのは、奇跡です!人々の絆・繋がりは大きな実りです。
 さて皆さん「一体あなたの持っている物で頂かなかったものがあるでしょうか。」(1コリント 4:7)というこの問いを心に留めてみてください。人間は生れた時からその存在すべてが借りるところから始まっています。その借りたものを返す事が生きることなのです。私たちは他者に与えなければ収穫する事は出来ないのです。生きるためには、自分が受けるより与え続けていくことが必要です。そこに思いがけないもの、本来の人間の心が生まれてくるのです。特にキリスト者はこのことに召されています。
 教会典礼に於いて「ロザリオの10月」を迎え、わがままを優先しがちな私たちも教皇レオ13世の言葉「ロザリオは社会を害する悪と戦うための効果的な霊的武器である」を意識しながらロザリオの祈りの力に信頼して自分のためだけではなく他者のためにも時間を費やして祈って下さい。機械文明のただ中にある私たちキリスト者の心も豊かになり、恵みを頂く事が出来るでしょう。自分が与える事の出来るものには限りがありますが、得られるものには限りがありません。
 「ロザリオの祈り」を一つの鐘と譬えるとすれば「アヴェ・マリア」の一つ一つの鐘を高らかに鳴らして、願って行きましょう。この祈りを繰り返し唱えることによって、鐘の音は大きくなり、私たちの願いは直接神の元に届き、受け入れられるのです。さあ皆さん「人生のリズムを刻む単純な祈りであるロザリオ」を祈りましょう。



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2018.10.21 Sunday

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