cross.png 聖霊降臨


 
聖霊が燃える時

 肌寒かったり、蒸し暑かったりと不安定で落ち着かないこの頃のお天気は、正に梅雨の走りのようです。有り難いことにようやく「緊急事態宣言」が解除され、重苦しい空気が少し払拭され大いに癒されました。先日は、私の司祭叙階10周年に当たり、思いがけず教会の皆様から素晴らしいお祝いの寄せ書きを頂き、こんな時なのに、と嬉しいサプライズに胸が一杯になりました。教会委員をはじめ、信徒のお一人おひとりに感謝致します。何年経ってもいまだに未熟な私です。自分の努力は微々たるものでしかないと日々感じております。だからこそ、多くの方々の温かいお祈りと神の計り知れないお導きによって、これからも皆さまのために働いていけたらと思っています。今後もよろしくお願い致します。
 緊急事態の49日間は長く感じたのに対して、50日間の復活節の日々はあっという間に過ぎてしまい、何と「聖霊降臨」の祭日を迎えました。復活され天に上げられたイエスが私たちに約束された聖霊を、喜んで迎え、それぞれの場で実感して頂けたらと思います。聖霊の働きとその恵みを頂いている教会−つまりイエスの弟子たちだけではなく私たちにも、人を赦し、愛することが可能になるように祈っていく力が誕生するのです。聖霊が注がれなければ教会が誕生しなかったという意味で、私たちにとっては記念すべき祭日です。
 ところが、この聖霊については、私たちはなかなかピンと来ないかもしれません。第1朗読の「使徒たちの宣教」の中で、聖霊は「激しい風」また「炎のような舌」という、目に見えるしるしとして表現されています。聖霊は燃え立つ炎のように、積極的に生き生きとして躍動している神の姿です。

 私は、この頃「日本昔ばなしの言葉絵本」にはまっています。火を灯す、囲炉裏に関心を持っています。そして、テレビで冬に雪の積もった家の中で囲炉裏に赤々と炎が燃えている光景を観たことがあります。この光景を思い浮かべながらイエスの弟子たちの背景を考えてみました。森や林から拾って集められた、いわば家を造るにも使えず、役に立たない、燃やすだけの薪です。でもこの薪は、囲炉裏に投げ入れられ一旦火がついて燃え出すと、完全に変わります。燃やされた木々は美しく炎を生み出し、寒さを凌ぐことが出来て、その上に料理も作れます。何より周りを明るく照らすのです。夏のキャンプファイアーでも、組まれた木々が燃え出すと、真っ暗闇の中でそこだけが命を与えられたかのようにゆらゆらと炎が動き、大きな力を感じさせられます。価値のないと見られた薪は炎に燃やされることで新たな命を得て、新たな使命に生きるかのようです。聖霊が炎であるならば、薪はイエスの弟子たちと言えるのではないでしょうか。
 今日の福音の冒頭に「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。イエスが十字架につけられた時から恐れて戸を閉じていた弟子たちは、心を一つにして集まっていたのではありませんでした。それは弱々しい人間である弟子たちでした。イエスの受難の際に、イエスを拒み去ってしまった弟子たちです。逃げることしか出来ない弟子たちは、イエスへの期待ではなく、闇のような絶望とイエスへの愛を裏切った悲しみを抱きつつ集まっていたことでしょう。そして、弟子たちの心を見通しておられたイエスは復活して彼らに現れ、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。聖霊が弟子たちの上に降ると、気の弱い臆病な心ははっきりとした勇敢な心へと、彼らの人生が180度変わりました。
 この聖霊を受けた弟子たちは、受け身ではなく特別な使命を頂いた積極的に行動する者に変わったのです。弟子たちの心は聖霊に満たされ、心の奥深くに持っていたタレントを呼び覚まされ、燃え立ちました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)という聖パウロの言葉によれば、弟子たちは燃え立つ炎の心を持つことで、力強い愛が生まれてくるのです。その上「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪が赦される」というイエスに委ねられた権限と共に、弟子たちがこの世界に広がって行きました。
 私たちは弱くはかない者として創られました。自分の力では、どうすることも出来ないことに直面することがあります。しかし、洗礼と堅信の秘跡を通して、私たちは聖霊を受けました。聖霊は一人ひとりの中で力強く躍動しながら、それぞれに神から頂いた賜物やタレントを愛の炎として燃え立たせ、力強く生きています。このタレントや賜物は正に薪です。キリスト者として私たちは、日々の生活の中で、この薪を燃やす火が必要であることに気づくのではないでしょうか。火こそ、私たちの心の中で働く聖霊の力です。
 第2朗読の最後に「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」という聖パウロの確信に励まされ、その教えを心に刻み、私たちの中におられる聖霊が燃える時を祈りましょう。そして何より大変なこの状況の中に、愛の実践を通して福音の喜びを人々に伝えることが出来ますように、聖霊の息吹・愛の炎を頂き、共に救いの道を歩んで参りましょう。


 

2020年5月31日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.29 Friday
cross.png 主の昇天


 
バトンをしっかり持って

 何によっても止めることが出来ない程の生命力を感じる緑の葉っぱが、曇り空にその輝きを隠され雨に打たれることが多い一週間だったように思います。季節が移り変わっていく中、典礼暦においては「主の昇天」を迎えました。今年の主の昇天は5月21日の木曜日ですが、司牧的配慮からたくさんの信徒が共に祝うことが出来るようにと、日本を始め多くの国では、次の日曜日である本日に移動したのです。
 わたしがこの中原教会に赴任して2年2ヶ月程ですが、まだまだ慣れない習慣、出来ないことが多く、あっという間に時間が過ぎて行くように感じます。時間は私を待ってくれません。しかし新型コロナウイルスの影響を受けた3ヶ月、皆さんとほとんど会うことが出来ずに、首を長くしてひたすらミサの再開を待っています。待ち望む時の時間は何と長いことでしょう。時間の感覚は不思議です。
 第一朗読の「使徒たちの宣教」では「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」と記されています。復活されたイエスはこの間、弟子たちの信仰を強くするため、度々弟子たちの前に現れました。ですから、弟子たちが復活されたイエスとの四十日間をどう思ったか、少し分かるような気がします。恐らく、もっと学びたい、もっと聴きたい、もっと一緒に居たい、と思っていた弟子たちにはあっという間のとても短い時間だったことでしょう。そして「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と「主の昇天」の出来事を私たちに示してくれました。「主の昇天」は、正にイエスと弟子たちのこの世における最後の別れです。「別れ」と言うと、無理やり引き離されてしまうような思いや絶望や行き詰まりなど、私たちにとっては、別離の悲しみというイメージが浮かぶかもしれません。しかし、イエスが弟子たちに示す「別れ」はそのようなものではありません。自ら公に天に上げられることによって、復活されたイエスは再び以前のように皆の前に現れることがないことを弟子たちに知らせました。この別れが意味するのは、神である父から与えられた使命を成し遂げられたイエスのゴールであり、次は弟子たちの出番なのだということです。イエスがこの世を去られ、天に上げられても、弟子たちは一人ではありません。むしろ何度も現れいろいろ気付かせてくださったイエスが、共にいることを強く信じて歩んでいく人間として、イエスの使命のバトンを引き継ごうとしているのです。高まって行く弟子たちの信仰、それが確立されるのは聖霊が訪れる時です。弟子たちの信仰を完成するものは聖霊の働きです。
 そして、イエスは私たちにも「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられ、そのバトンも渡された、と言えるのです。それは、イエスとしっかり結ばれる絆を深く感じながら、イエスの受難と復活を伝える、という使命です。しかも、イエスの受難と復活を通して、この神の愛を単に自分たちのうちに留めるだけではなく「他のキリストをまだ知らない人々にも神の民として永遠の命を分かち合っていきなさい。」と呼びかけられるのです。イエスから大事なバトンを受け取った私たち一人ひとりの手を通してその使命が広がり、実現していくのです。そして何よりも私たちは復活されたイエスと出会った喜びをもって、生かされ生きているのです。だから生きる希望をもたらす使者として証しする者となるのです。
 イエスは私たちが託されたバトンを持ってゴールできるように、この世を離れる前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という一つの約束、希望に満ち溢れる保証を残してくださいました。すなわち、私たちは一人ぼっちではなく、いつも主イエスに結ばれてイエスと共にいるのです。復活されたイエスは天に昇られました。しかし天とは時間や空間を越えた、つまりパウロが指摘した「神は、キリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の座に着かせた」ところなのです。
 私たちは天のお父さんの子供です。お父さんが子供の成長を見守るのは当然のことです。教会は「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」と宣言し、私たちに大きな希望を与えています。イエスからバトンを受け継いだ私たち一人ひとりは、頂いた使命を生き果たし、ゴールインしたいと願っています。
 人生の様々な動揺や試練、特に世界的なレベルで体験したこともない今回のコロナ禍の痛みを通して、私たちの信仰を確かなものにしていきましょう。特に、神の愛、天の国は既に今ここにあることを心に留め、永遠の命を目指す大きな希望を与えられていることを思い出しましょう。大きな希望を思い出す時、イエスから託されたバトンをイエスと共に握っていることに気が付き、私たちがまた一歩力強く踏み出すことが出来ますように、共に祈り続けましょう。


 

2020年5月24日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.22 Friday
cross.png 復活節第6主日


 
キリスト者としての秘訣

 目に眩しい程に緑色の葉がますます濃く、風も強く、五月というよりは初夏のようです。太陽の日差しは、まるで真夏の訪れです。まもなく教会が聖霊の息吹を迎える準備、と言いたい所ですが、残念ながら今年はそれもまだ実感出来ません。しかしこういう時にこそ、キリスト者として日々の祈りのうちに、私たちはイエスが復活されたという神秘を一層味わい、復活への信仰をより強くしたいものです。今程毎日祈る日々もありません。祈りのうちに、自分自身を生かす大切なものを見つけ出すことが出来て、非常に励まされていると思う方々が多いのではないでしょうか。この不安な日々、信じている神に祈ることで心が落ち着き、整理でき、思わぬことに気がついたり、遠く離れている人を思い出して電話をかけたり、手紙を書いたりと、自然とそうしたくなるから不思議です。
 外出自粛という日々は、考えようによっては、自宅では充分な時間があり、やりたいことが出来るチャンスが増えるとも言えます。私もあまり得意とは言えない料理に取り組んでいます。お陰で最近少しずつコツと言いますか、秘訣のようなものが分かって来ました。それは隠し味というようなものでしょうか。隠し味が分かれば分かる程、秘訣を知れば知る程、料理は美味しくなります。皆さんも同じようなことを体験しておられるのではないでしょうか。もちろん日常生活のどの分野にも、恐らく秘訣や隠し味というものがあって、専門の人はその力を生かしていると思います。
 キリスト者にも秘訣や隠し味があります。日々の生活に生かす秘訣や隠し味とは、どんなものでしょうか。
 今日用意されている福音は、イエスは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人はわたしを愛する者である」という尊い秘訣を伝え、私たちに残してくださいました。イエスの掟を受け入れて守ることができる時、私たちは掟をくださったイエスのことを信じています。イエスを信じている時を別の言葉で言うと、イエスの愛を知ってイエスを愛している時と言えます。イエスの掟を守るためにはイエスを信じなければならないのです。そして、イエスを信じる理由が「愛」です。
 日々の生活の中で、信じることは生きる前提として必要なことです。今回のコロナ禍での”Stay Home”は私たちがお互いに協力し合えると信じているからこそ出来る取り組みです。また、外出自粛で会えない期間があって友人関係が無くなってしまったという話も聞きません。私たちは信頼し合っているからこそ、日常生活が営めます。そして愛することも出来ます。愛することと信じることは表裏一体です。信じなければ愛することは出来ず、愛がないなら信じることは出来ないのです。
 信じることと愛すること、この二つは正に私たちにとって大切な二つの目です。心の目・信仰の目です。この二つの目ではっきり見るからこそ、一層広く深く見ることが出来るのです。また、信じることと愛すること、この二つは、まるで空を飛ぶ鳥の一対の翼のようにそのバランスで私たちが高く飛ぶのを助けてくれます。私たちは、信仰の目と愛の翼を広げなければ心豊かに生きることが出来ず、神の永遠の交わりに入ることが出来ないのです。ですから、キリスト者は信仰を持って「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、これがわたしの掟である」というイエスの招きに応えていくのです。
 イエスが御父のもとに戻り、弟子たちから離れていくと、弟子たちは自分の目でイエスを見ることが出来なくなりました。しかしイエスは「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束をしてくださいました。信じるならばいつでも、イエスに会い、イエスと共にいることを感じられます。これは聖霊の働きであり、神の力です。またイエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と宣言しています。ですから私たちが心細く独りになることは無いのです。送られた聖霊に満たされ、共にいてくださるイエスの愛を知って、私たちが互いに愛し合うことこそがイエスが残してくださった秘訣です。
 しかし、日常生活の中で信じること、愛することを大切に生きる人程騙されたりして苦しむことや悲しむことが多いでしょう。第2朗読の「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」という聖ペトロの教えは私たちキリスト者の確信であり、信仰生活における証拠として示されています。私たちが今は苦しんでいても、神の御心であるイエスを信じイエスを中心に生きて、互いに愛し合うならば、裁きの時に喜びに満たされるという希望を持てるからです。
 今は何でも手にして確かめることが出来て、目に見えないものはないと言って良いでしょう。だから、色々分からなくなって疑ってしまうのです。今、世界の状況は正にそうではないでしょうか。疑い深い世界、愛する難しさ、信じる難しさが増す中で生きている私たちは、キリスト者として愛すること、信じることを改めて考える機会が必要です。その機会は、日々の祈りです。祈りの中で、私たちのうちに送られる聖霊の働きを信じ、愛の掟というキリスト者にとっての大きな秘訣を残されたイエスに従って生きる喜びを深めながら、自分の命まで差し出す愛に倣って、示すことが出来ますように生きて参りましょう。


 

2020年5月17日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.16 Saturday
cross.png 復活節第5主日


 
イエスという「道」

 五月は信仰生活において、私たちキリスト者の聖母マリアの月です。特に、五月の第二日曜日は「母の日」です。この日を迎えられたお母さんたち、おめでとうございます。一人ひとりのお母さんの健康を願いながら、日々子供や家族のために一生懸命に働いているご苦労を神が祝福してくださり、一層心豊かになりますように、感謝と尊敬の心を持って祈りたいと思います。私たち一人ひとりには母がおり、たっぷりの栄養と惜しみない愛情に包まれて、私たちはここまで生きてきました。「神は至る所に存在することが出来ないので、母親を創造するのです。」というエジプトの諺がありますが、私たちはお母さんの美しい母性を讃えます。今日一日、母親の存在がどれ程偉大で、また日々どれ程全力を尽くして献身的に私たちを支えているのかを噛み締めてみましょう。
 さて、緊急事態宣言が延長され、必死に頑張っている多くの人々にとっては、裏切られたようで「疲れて先が見えない」などと心を騒がせる日々です。また、相次いで地震が発生し、不安な生活が続いている私たちです。今日の福音の中で「心を騒がせるな。…私の父の家には住む所がたくさんある」というイエスの言葉は、今の私たちの心にピッタリしますが、「主よ、何処へ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」というトマスの問いは、正に今の私たち一人ひとりの問いでもあります。
 例えば、皆さんは中原教会まで幾つかの道を通って来られたと思います。それはどんな道でしょうか。その道は一つではなく、狭い道、広い道など色々でしょう。目的は一つ、中原教会への道です。道が造られたのは、目的があるからです。道は自然に出来るものではありません。少なくとも、誰かが何度も何度も歩まなければ道にはなりません。既に道があっても、通る人がいなくなれば道は荒れて、歩くことが出来なくなります。草が生い茂ってしまい、入ることの出来ない危険な道になってしまいます。

 道は偶然出来た道ではなく、私たちを一つの目的地へと導いて行く道です。誰かが造った道です。目的があるからこそ出来た道です。日本の文化の中でも茶道、書道、剣道、柔道などと呼ばれる大切な道があります。
 人気アイドル「嵐」の「Happiness」(作詞:Wonderland 作曲:岡田実音 2007年)では「…遠くまで 遠くまで、どこまでも続く道、君だけの声を聞かせてよ、ずっとそばにいるよ、止めないで、止めないで、ずっと信じる気持ち…。今は名もないつぼみだけど、一つだけのHappiness」と歌われます。小さな幸せの蕾をつないでいけば、未来には大きな幸せの花が咲くのです。
 勿論、多くの人はそれぞれ具体的な目標を持って生きているでしょう。例えば、将来有名な野球選手になりたいという希望を持っている子供は、野球選手になる為の方法を探して努力します。同じようにキリスト者は最終的には、永遠の命に与り、神の家にいく希望を持って努力するのです。
 私たちキリスト者は、選ばれた民、王の系統をひく祭司、聖なる国民、神のものとなった民として、それぞれの場所でイエスへの道「力ある業」を広めていく使命があります。そして私たちイエスを信じる者は、主イエスによって「神の力ある業」を伝える者に変えられるのです。イエスが教えてくださる道はイエス自らの道でもあり、ご自身で開かれ、ご自身が目的でもある道です。イエスの道として何より大切なのは、父である神のみ旨に従い、人を絶えず愛して仕えることです。イエスの道は謙虚な生き方です。「キリストは神の身分でありながら、…かえって自分を無にして、僕の身分になり、…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8参考)。だから、イエスは「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と弟子たちにはっきり言い、私たちを信頼に満ちた信仰へと導き、御父を示してくださいました。イエスこそ、人間の生きる模範であり、御父の許へ行くための道で、他にはありません。イエスは神に至る道、生きる道を造られた命である方です。更に「私が父の内におり、父が私の内におられる」というイエスの言葉から分かるように、イエスの不思議な業は、イエスのうちにあって彼と共に働く神の力です。イエスと神が一体であるという事を信じる者は、イエスの業を共に行う者になります。
 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光のなかへと招き入れてくださった方の力ある業を広く伝える力を頂くために」と第二朗読のペトロの言葉によれば、ミサに与る私たちは、イエスと出会うだけなく、イエスの御体を頂くことによってイエスと合体し、一つになるのです。そしてイエスは、自分の行う業よりも「もっと大きな業を行うようになる」と私たちを励まします。イエスを信じる者は苦しいことがあろうとも、必ず道の終わりには、父がイエスと共に迎えてくださるのです。この道が私たちを招いているのです。
 先が見えない中でも、イエスの後を歩む私たちを助けてくださる聖母の取り次ぎを信じて「ロザリオの祈り」を唱え、祈りましょう。「信じる」とは、幼子が母を無条件に慕う理由のいらない心です。この聖母月にその信じる心を思い起こして、どのような状況の中でも「心を騒がせるな。信じなさい」と呼びかけるイエスの道を大切にして行きましょう。

2020年5月10日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.08 Friday
cross.png 復活節第4主日


 
救いへの「門」

 自然界は例年と変わらずに、周りの若葉の緑が目にまぶしく、花々が咲き誇り、私たちを楽しませてくれています。でも何かが違っています。遠くからのざわめきや人々の話し声や生活の音がなく、街はひっそりしています。大型連休のまっただ中にあっても、不要不急の外出は自粛を要請され、ステイホームが叫ばれています。こんな時だからこそ静かに家族とゆっくり過ごすことが出来るのです。豊かな時間が家族にとって実りの時でありますように願っています。また私たちが捧げる様々な犠牲が、今直面しているパンデミックを一刻も早く終息させる力となりますようにと祈っています。

 私は今日の福音を耳に心地よく感じながら、牧歌的な風景から「谷川の水を求めてあえぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う。」という典礼聖歌の歌詞を思い出し、一匹の羊を抱いているイエスの姿が目に浮かびました。言うまでもありませんが、一ヶ月前に、私たちはイエスの受難の道を通って復活の栄光に入り、勝利を祝ったばかりです。この復活された主イエスは、高い空の私たちの手の届かない所におられる訳ではありません。むしろ、羊と羊飼いとの関係のように、私たちにとって親しく身近な所にいてくださるのです。そしてこの主イエス自らが「わたしは羊の門である」と語りかけ、私たちの信仰がより主イエスに近づいていくように招いてくださいます。どれ程、謙遜で優しい善き牧者イエスでしょうか。イエスが「私は羊の門である」と言われるこの門は、どのような門でしょうか。
 丁度今、アメリカ、イタリア、インド、パキスタン等の多くの国々が全土を封鎖して、ロックダウンを実行しています。正に国への門を閉じています。門が閉じられたのは、ある面では新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるためですが、失業、盗難、倒産等の事例が相次ぎ、更には大きな不安や危険、飢え死にする等の悪い面も発生しているからです。これは他人事ではありません。私たちの日本でも、都市封鎖というより、外出自粛要請が出され、それだけでも息苦しい日々です。一日も早い緊急事態宣言の解除を望み、新しい空気を吸い込みたいと心から願っています。これは、誰も同じ気持ちだと思います。
 日常生活の中で、門や扉はその建物の中にいる人物や物などを守りながら、それらをより豊かにする為に、開け閉めをしなければなりません。人々を拘束し、徐々に衰弱させていくような牢の門もあります。これらの門は人々に死をもたらすのです。一方、人々に生き生きとした生き甲斐や希望をもたらすために、開けられる門もあります。これが命の門です。
 人となられた神の子イエスの生涯、特に十字架の死と復活の出来事を通して「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と今日の福音の最後に記されています。正にイエスは命の門です。私たちはこの門を通り救われます。イエスは私たちを豊かに生かすために、この門を開け、永遠の命に与れるように導いてくださいます。善き牧者であるイエスの声に従う羊はここを出入りして、豊かな牧草を見つけ出します。イエスが門であるなら、私たちは何度でもそこに立ち帰ることが出来ます。苦しいことや悲しいことがあってさまよい、イエスから離れてしまう日があるかもしれません。門から出てしまうこともあるでしょう。しかし「わたしは門である」というイエスの救いを信じて立ち帰ることが出来るならば、門はいつでも開かれており、イエスはいつでも迎え入れてくれます。第二朗読の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」という聖ペトロの言葉があります。ですから、今日の日曜日は「善い牧者の主日」とも呼ばれます。
 そして、今日の福音は「盗人や強盗」と「真の牧者」との見分けは簡単ではないと記します。「羊はその声を聞き分ける。」(3節)「羊はその声を知っているので、ついて行くのです。」(4節)私たちは洗礼の恵みにより聖霊に導かれ「聞き分け」て「ついて行く」ことが出来るのです。主の呼びかけは、人々を洗礼へと導き、罪の赦しを与え聖霊の賜物を受ける恵みに招くのです。その招きに応えて、私たち一人ひとりが神の子として生きる「生き方の転換」をして「聞き分けること」また「ついて行くこと」こそが、キリスト者の召命だと思います。これは一生の問題で難しいですが、呼ばれた命を「生きる」つまりは、委ねる生き方が求められます。
 今私たちは新型コロナウイルス感染症のことで毎日騒がしい中に置かれています。この中で、私たちが実行して行かなければならないことを識別いたしましょう。大変辛いことでもありますが、第二朗読の中で「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。」という聖ペトロの言葉を心に留め、自分の命だけではなく、周りの人々の命をも守るために犠牲を払わなくてはなりません。

 今日は「世界召命祈願」の日でもあります。聖アウグスチヌスは「キリスト者であることは、わたしたちの利益ですが、指導者であることは、もっぱらあなたがたの利益のためです」と指摘している通り、召命というのは単に司祭や修道者のためだけではありません。根本的な召命は、誰もが洗礼の秘跡を通してキリスト者であるという召命です。教会は私たちに、キリスト者という召命についてよく考えた上で、キリストと共に歩む喜びを伝え、特に司祭や修道者の召命の少ない現在において、その重要性や大切さを切に祈るように呼びかけています。また私たちは、何より新型コロナウイルスの猛威の中で、奉仕を続けておられる司祭や修道者や医療従事者の方々、特に、犠牲を払って寄り添い、命を捧げた多くの方々に感謝と尊敬の念を心に深く留めて祈り続けたいと思います。誰もがそれぞれに置かれた場所でたくさんの試練に遭いながらも一所懸命生きておられますが、どんな試練も乗り越えられますようにと互いにお祈りいたしましょう。そして、神の恵みによって生かされている私たちが、善き牧者であるイエスのように、キリスト者として出会う人々を、主の豊かな命に導くことが出来ますように祈りましょう。

■追加
「第57回世界召命祈願の日」教皇メッセージ

2020年5月3日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.02 Saturday

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