東横病院内でミサを捧げていた人々をきっかけとして、1958年アトンメント会が武蔵小杉に設立した教会です。


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受難の主日


救いの道

 春先の暖かい気温と爽やかな風に恵まれて聖週間を迎えました。ウクライナとロシアだけではなくスリランカやミャンマーなどまるで狂ったかのように世界各地で悲惨な戦いが止むことを知りません。不安な世界情勢の中でも、イエスの受難の道を共に辿り、一人でも多くの人が救いへと導かれることが出来ますように心から祈りましょう。今起こっている世界各地の戦いは自然に起こったものではなく、人間が作り出しているものです。この辛い状況から一日も早く解放され、救いへの導きを求めることは受難の主日のはじまりに感慨深いです。
 さて、本日の典礼の中の枝の祝福と行列について考えてみたいと思います。イエスがエルサレム入城はどれ程大事かと弟子に細かく示し、様々なことを教えたのは、群衆に「万歳!」と褒め称えられるためではありません。むしろ、イエスは一粒の麦としての生き方として、受難と十字架の道を生き続けることをよく悟り、神の救いの業を成就させるために入城しなければならなかったのです。
 福音書の中で、エルサレムの人々が枝を手に持ち、着ていた衣服を道に敷いてイエスを歓迎するのは短い時間であっという間に終わってしまいますが、私たちは真理の王であるイエスの命ある道に従っていかなければなりません。しかし、イエスが歩んで行かれる道は簡単ではありません。ですから、私たちはこの枝の祝福式を通して、枯れてしまう枝をいつか終わってしまう自分の人生のしるしとして、この世のすべての物に執着せず、神の子イエスの歩まれた道をしっかり歩んでいきましょう。
 そして、衣服を脱いで道に敷いたように自分が持っている弱さや自慢したいことや誇りたいこと、自己中心的な思い、罪などを自分から脱いで道に敷いてイエスに通って頂くことによって自分から剥がすことが出来るのです。その剥がれた心にイエスの謙虚で従順な心を新たに身につけて、イエスと共に慈しみ深い神のみ旨に忠実に従ってその務めを果たして行くことが出来るようにその意味を意識して理解しながら大きな喜びのうちにイエスのエルサレム入城を祝うのです。
 聖週間の初めに当たり、教会は必ず受難の箇所を読み上げます。特に、今年はルカ福音記者が裸の神の子イエスのとても悲劇的な苦しみや痛みを書かずに、主の最後の晩餐から墓に納めるまでの神の子の人生の最後の瞬間を強調して、私たちが神の限りない愛を体験するように招いています。それと共に、イエスに対して怒りや憎しみの荒波を打ち付ける人間の心の変化をも見ました。イエスは王としてエルサレムへ入城した時に民衆から大歓迎されましたが、数時間のうちに手のひらを返したかのように犯罪人としてののしりの言葉を浴びせられ、十字架上で命を絶たれたのです。群衆の喜びの大歓声は嘲りと落胆の罵声に変わり、弟子たちでさえも恐れから裏切りました。受難朗読の中の「既に、昼の12時頃であった。全地は暗くなり、それが3時まで続き、太陽は光を失っていた」とあるように、真昼から午後3時の明るい時間のはずなのに辺り一帯は暗くなったのです。これは単に空模様を述べているだけではなく、心の内面を表していると言えるでしょう。
 人間はどれ程醜く、裏表のある心を持った弱い人間であるかを見せられました。人間の利己的でその場の一時的な考えに反して、イエスご自身は「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と読まれた第2朗読の通り、神の身分でありながら、私たちの救いのためにへりくだりの模範を見せてくださいました。
 耐え難い苦しみの中でも、父である神から与えられた使命である受難と十字架上の死を通して、救いのわざを実現されたのです。強い意志を持つイエスは、次々と襲い掛かる苦難を恐れることなくすべては神の憐れみを表すためと、一つ一つ冷静に対応されました。だから、十字架の上でも、共に十字架に掛けられた罪人に「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」という確かな赦し、温かい励まし、そして何よりも明るい希望を与えました。この一週間、私たちはイエスの死の意味を黙想して真のメシアの意味を知りましょう。
 受難物語は多くの役割を持つドラマのようです。私たちは過去のものを単に読んだり、聞いたりするのではなく、各々の役割の中で自分自身の隠れた存在を見つめて、他人事ではなく私たちも責任を持って関わることが大切です。「キリストは時の終わりまで死にかけ続けている。私たち一人ひとりの生き方にまだイエスの受難物語は続いている」というパスカーレの言葉が響きます。
 今世界の状況を見ますと、自然災害によって苦しんでいるばかりではありません。キリスト者でさえ、自分の利益のためにキリストを裏切ってしまっているのではないかと思うことが多々起こっています。多くの人々は救いではなく滅びへの道を歩んでいるのではないでしょうか。一人ひとりが生き方をよく振り返りながら、受難と十字架の道を歩んでおられるイエスの苦しみを共に負い、コロナや数々の出来事を乗り越えることによって復活の喜びを共に味わい、希望のうちに新たな力を見出す事が出来ますよう、大切に過ごし祈りましょう。

2022年4月10日
ハー・ミン・トゥ神父

受難の主日_印刷用(PDF形式)
2022.04.07 Thursday
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