cross.png 聖木曜日(主の晩餐)



今夜、私たちのところに訪ねて来た主イエス

聖体に献香
 世界中が大変残念な状況の中でも、不思議に思える程晴れやかなお天気に恵まれました。心が少し癒されるような思いの中で、誰も体験したことのない聖週間を迎えています。そして、本日「主の晩餐の夕べのミサ」を以て、回心の断食である四旬節から過ぎ越しの断食へと引き継がれ、待ち望んで来た信仰生活の頂点であるご復活の先取りが始まります。

 今夜のミサはとても大切で特別な夜です。勿論ミサは同じように見えるかもしれませんが、実際はいつもと同じではないのです。イエスの12人の弟子たちも、同じ食卓で今まで数え切れないほど食卓を共にして来ました。しかし最後の晩餐は、たとえいつもと変わらない同じ形であっても、イエスがどれ程弟子たちを愛しているか、ただの別れではなく引き裂かれるような親子の別れを覚悟していることが表されています。だからこそ特別なのです。イエスと弟子一人ひとりの気持ちも今夜は違うのです。そして、それは今の私たちにも当てはまります。具体的には、今司祭は公にすべての信徒の皆さんとミサを捧げ、共に味わうことも出来ません。信徒の皆さんは、教会に来てイエスを迎えるのではなく、神の子イエスが御自ら皆さん一人ひとりの所を訪れ、皆さんと一緒に是非「最後の晩餐」をしたいということが特別なのです。今夜は、それぞれの場で主イエスを静かに迎えましょう。
 言うまでもありませんが、キリスト者にとっては、感謝の祭儀ミサは、私たちの日々の生活の中心です。今夜の福音では、洗足式の行為をわざと強調して、まるで秘跡が行われるかのように表わされています。そしてこの行為によって洗足式は聖体の秘跡と別々なものではなく、むしろこの聖体の秘跡を完成させるものとなるのです。感謝の祭儀・ミサは終わらずに、私たちの生活の至るところまで続いて行くのです。
 このことについて、聖マザーテレサ・コルカタは『神の愛の宣教者会』への入会希望者に「あなたはミサの中で、大いなる注意と愛でご聖体に触れた司祭に倣って、危篤の人の中にイエスの神聖な姿を見つけるように、彼らを大切にして仕えてください。」と、入会初日に、瀕死の人の介護を体験するように決められているのです。ミサにおいて、祭壇の上で「聖体の秘跡」が起きるならば、キリスト者の日常生活において具体的な一人ひとりである社会に見捨てられ、虐げられている人々が生きている主イエスの聖体を表していると言えます。どちらも中心は主イエスの愛です。特に「洗足式」は、極みまでこの上なく愛し抜かれたという意味です。足を洗うだけではなく、弟子に命を与える為に、自らの命を投げ出し、死の極みまで愛することの模範です。そして今夜こそ、イエスが弟子たちの足を洗うことによって、罪人である私たちの体は聖霊が宿る神殿としてどれ程大切にしてもしすぎることはない、という姿勢を示されました。



 今は盛大に共にミサに与ることが出来ず、実際にご聖体を味わうことが出来ません。しかし危機に直面して いる今の方が、どれ程多くの人々が、弟子の足を洗うイエスの姿のように活き活きと具体的に生き、真に主イエスに出会っていることでしょう。例えばコロナウイルスに感染するリスクがとても高い中でも、教皇フランシスコの聖週間に向けてのメッセージにあるように「毎日毎時どれ程多くのヒーローが活躍しているか。」ということです。
 この三日間の典礼を通して、受難の道を歩んでいるイエスの姿に倣い、どんな時より今私たちも足を洗い、「この時を活かすよう努力しましょう。寛容になりましょう。困っている近隣の人を助けましょう。独りぼっちになった人を、電話やソーシャルメディアを使ってでも、気遣いましょう。イタリアや世界で苦しんでいる人の為に、主に祈りましょう。」という教皇フランシスコの招きに心を留めて積極的に過ごしましょう。そうすることによって、医療関係者だけではなく、家にいる一人ひとりの皆さんも周りの人を気遣ったり、大切にしたり、感染に気を付けながらパンデミックを終息させる為に精一杯心を砕いて働いている事になります。それこそ教皇フランシスコの言葉をお借りするなら、私たちもヒーローになるでしょう。今こそ、私たちが具体的に示す上下の隔たりのない愛を通して「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」というイエスの教えを多くの人々に伝えて行くことが出来ますように祈りましょう。

2020年4月9日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.08 Wednesday
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