cross.png 聖金曜日(主の受難)



絶えず愛に渇く神の子

十字架称賛
十字架称賛
 今日は、全世界のカトリック信者にとって、大切な日です。神の子イエスの死を想い起こす日です。この数ヶ月、世界中に蔓延している新型コロナウイルスによって犠牲になられた10万人近くの方々の安息を特に心を併せて祈りたいと思います。そして不安のうちにある私たちも、思い掛けない規模の死のニュースを聞き、死について考えさせられる貴重な体験をしています。あたかもイエスの死の意味が私たち一人ひとりに迫って来ているかのようです。 聖金曜日のヨハネによる受難の朗読の中で、イエスは息を引き取る直前、痛みと侮辱の中で、また深い悲しみと孤独の中で「渇く」という、人生における一番辛い時に、その言葉を口にされました。父である神に対しても、弟子たちを通して人間に対してもご自分を与え尽くして、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り言われた一言です。ですから、私たちは「キリストは人間の姿であらわれ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、自分を低くして従うものとなった」という詠唱を通してキリスト賛歌を讃えたのです。
 神の子イエスは、最高の愛は痛みと流血を伴うこと、また、それらを避ける術を知っているにもかかわらず、最後までありのままに受け入れておられるのです。神の子イエスはすべてを受け取りました。そして、私たちは愛の業の頂点として救いの道に導かれるのです。第2朗読の中で「キリストは従順を学ばれ、御自分に従順であるすべての人々に対して救いの源となった」と言われました。つまり十字架はただの苦しみで終わりません。産みの苦しみであり、喜びの伴う苦しみです。神の子が息を引き取る時、人々は新たに生まれ、愛する弟子とされるのです。人間の愛を切望しておられる神の愛を私たちに注がれるために、神の子イエスは私たちを渇望しておられます。息を引き取ったイエスは、神と私たちにバトンタッチをしたのです。命の豊かさを渡してくれました。イエスの死は、永遠の愛を表しています。

 今夜の典礼の中で「十字架の崇敬」が中心となりますが、共に集って十字架の崇敬を行うことは出来ませんので、それぞれの場で、十字架を自分の目の前に置いて、ゆっくりじっとご覧ください。沈黙のうちに、十字架の上に神の子イエスは釘づけられて立っておられるのです。立つということは行動に移せる姿勢です。つまり、楽な気持ちではなく、犠牲を払い、いつでも闘う準備が出来ている、ということを私たちに呼びかけておられます。
 十字架の縦のラインと横のラインの交差するところに、神の子イエスがおられるからこそ、私たちは父である神と繋がり、多くの人々とも繋がることが出来ます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10;27)という掟を実践していくように招かれています。手を広げておられるのは、誰一人をも差別せず受け入れる姿勢を表しています。手に釘を打たれたことによって、私たちの我が侭や自己中心的な思いを打ち壊し、私たちが祈り、助けることに招いています。足に釘を打たれたことによって、人の為に絶えず出かけて行くイエスの行動に私たちが気付き、新たな行動によって新しいものが生まれて来ます。槍で貫かれた心臓は、私たちに自分のことを振り返らせ、罪を悔い改めさせます。
 十字架上の神の子イエスを見ると、色々なことに気付きます。すべて人のために働かれた神の子イエスのことを通して、私たち自身のことも考えてみましょう。

 現代の私たちは、イエスの時代よりどれ程豊かになったとしても、死に対する神秘をただ沈黙のうちに受けとめ、思い巡らし、深めることしか出来ません。そこにある気付きを使命として果たし続けて行きたいものです。
 今この世で、愛に飢え渇いている人々を誰が満たしているでしょうか。私たちは神の子イエスが十字架上で亡くなられたことを記念するだけではなく、神の子の救いのわざを引き継いで実行しなければなりません。私たちも絶えず神を信頼することによって人々を助けることが出来るという思いを一層燃え立たせ、コロナウイルスに感染して亡くなった多くの人々のことを心に深く留め、自分に出来ることを精一杯果たすことが出来たらと思います。たとえ様々な制約に縛られる現状の中でも静かな心を大切にしながら沈黙のうちに、自分の命と引き換えに命の豊かさを私たちにくださった神の子イエスの気持ちを思い巡らしましょう。

入堂
沈黙のうちに司祭が入堂後、
すべての装飾が取り払われた祭壇の前でひれ伏して祈リ、
主の受難の典礼が始まります


2020年4月10日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.09 Thursday
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