東横病院内でミサを捧げていた人々をきっかけとして、1958年アトンメント会が武蔵小杉に設立した教会です。


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復活節第4主日


救いへの「門」

 自然界は例年と変わらずに、周りの若葉の緑が目にまぶしく、花々が咲き誇り、私たちを楽しませてくれています。でも何かが違っています。遠くからのざわめきや人々の話し声や生活の音がなく、街はひっそりしています。大型連休のまっただ中にあっても、不要不急の外出は自粛を要請され、ステイホームが叫ばれています。こんな時だからこそ静かに家族とゆっくり過ごすことが出来るのです。豊かな時間が家族にとって実りの時でありますように願っています。また私たちが捧げる様々な犠牲が、今直面しているパンデミックを一刻も早く終息させる力となりますようにと祈っています。

 私は今日の福音を耳に心地よく感じながら、牧歌的な風景から「谷川の水を求めてあえぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う。」という典礼聖歌の歌詞を思い出し、一匹の羊を抱いているイエスの姿が目に浮かびました。言うまでもありませんが、一ヶ月前に、私たちはイエスの受難の道を通って復活の栄光に入り、勝利を祝ったばかりです。この復活された主イエスは、高い空の私たちの手の届かない所におられる訳ではありません。むしろ、羊と羊飼いとの関係のように、私たちにとって親しく身近な所にいてくださるのです。そしてこの主イエス自らが「わたしは羊の門である」と語りかけ、私たちの信仰がより主イエスに近づいていくように招いてくださいます。どれ程、謙遜で優しい善き牧者イエスでしょうか。イエスが「私は羊の門である」と言われるこの門は、どのような門でしょうか。
 丁度今、アメリカ、イタリア、インド、パキスタン等の多くの国々が全土を封鎖して、ロックダウンを実行しています。正に国への門を閉じています。門が閉じられたのは、ある面では新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるためですが、失業、盗難、倒産等の事例が相次ぎ、更には大きな不安や危険、飢え死にする等の悪い面も発生しているからです。これは他人事ではありません。私たちの日本でも、都市封鎖というより、外出自粛要請が出され、それだけでも息苦しい日々です。一日も早い緊急事態宣言の解除を望み、新しい空気を吸い込みたいと心から願っています。これは、誰も同じ気持ちだと思います。
 日常生活の中で、門や扉はその建物の中にいる人物や物などを守りながら、それらをより豊かにする為に、開け閉めをしなければなりません。人々を拘束し、徐々に衰弱させていくような牢の門もあります。これらの門は人々に死をもたらすのです。一方、人々に生き生きとした生き甲斐や希望をもたらすために、開けられる門もあります。これが命の門です。
 人となられた神の子イエスの生涯、特に十字架の死と復活の出来事を通して「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と今日の福音の最後に記されています。正にイエスは命の門です。私たちはこの門を通り救われます。イエスは私たちを豊かに生かすために、この門を開け、永遠の命に与れるように導いてくださいます。善き牧者であるイエスの声に従う羊はここを出入りして、豊かな牧草を見つけ出します。イエスが門であるなら、私たちは何度でもそこに立ち帰ることが出来ます。苦しいことや悲しいことがあってさまよい、イエスから離れてしまう日があるかもしれません。門から出てしまうこともあるでしょう。しかし「わたしは門である」というイエスの救いを信じて立ち帰ることが出来るならば、門はいつでも開かれており、イエスはいつでも迎え入れてくれます。第二朗読の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」という聖ペトロの言葉があります。ですから、今日の日曜日は「善い牧者の主日」とも呼ばれます。
 そして、今日の福音は「盗人や強盗」と「真の牧者」との見分けは簡単ではないと記します。「羊はその声を聞き分ける。」(3節)「羊はその声を知っているので、ついて行くのです。」(4節)私たちは洗礼の恵みにより聖霊に導かれ「聞き分け」て「ついて行く」ことが出来るのです。主の呼びかけは、人々を洗礼へと導き、罪の赦しを与え聖霊の賜物を受ける恵みに招くのです。その招きに応えて、私たち一人ひとりが神の子として生きる「生き方の転換」をして「聞き分けること」また「ついて行くこと」こそが、キリスト者の召命だと思います。これは一生の問題で難しいですが、呼ばれた命を「生きる」つまりは、委ねる生き方が求められます。
 今私たちは新型コロナウイルス感染症のことで毎日騒がしい中に置かれています。この中で、私たちが実行して行かなければならないことを識別いたしましょう。大変辛いことでもありますが、第二朗読の中で「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。」という聖ペトロの言葉を心に留め、自分の命だけではなく、周りの人々の命をも守るために犠牲を払わなくてはなりません。

 今日は「世界召命祈願」の日でもあります。聖アウグスチヌスは「キリスト者であることは、わたしたちの利益ですが、指導者であることは、もっぱらあなたがたの利益のためです」と指摘している通り、召命というのは単に司祭や修道者のためだけではありません。根本的な召命は、誰もが洗礼の秘跡を通してキリスト者であるという召命です。教会は私たちに、キリスト者という召命についてよく考えた上で、キリストと共に歩む喜びを伝え、特に司祭や修道者の召命の少ない現在において、その重要性や大切さを切に祈るように呼びかけています。また私たちは、何より新型コロナウイルスの猛威の中で、奉仕を続けておられる司祭や修道者や医療従事者の方々、特に、犠牲を払って寄り添い、命を捧げた多くの方々に感謝と尊敬の念を心に深く留めて祈り続けたいと思います。誰もがそれぞれに置かれた場所でたくさんの試練に遭いながらも一所懸命生きておられますが、どんな試練も乗り越えられますようにと互いにお祈りいたしましょう。そして、神の恵みによって生かされている私たちが、善き牧者であるイエスのように、キリスト者として出会う人々を、主の豊かな命に導くことが出来ますように祈りましょう。



■追加
「第57回世界召命祈願の日」教皇メッセージ

2020年5月3日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.02 Saturday
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