東横病院内でミサを捧げていた人々をきっかけとして、1958年アトンメント会が武蔵小杉に設立した教会です。


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年間第16主日


弱さも愛する神


 新型コロナウイルス感染者数が増加し続けています。感染経路不明な方も多く、私たちの日々はなかなか落ち着きません。これから、夏休みに入る子供たちが感染や事故などから免れ、一人ひとりの命が大切に守られるように、自然に触れ合い、様々な出会いや豊かな体験を通して、体も心も成長して行くことが出来ますように神に祈りましょう。

 さて、コロナ太りを避けたい私は毎夕食を抜くだけではなく、ジョギングしています。しかし外に出ると暑さから逃れたくてついつい涼しい部屋に入り込んでしまいます。継続する大変さなどを実感して自分の弱さを感じながらも、他人の弱さに対しては、私たちはつい偏見を持って厳しく批判してしまいがちです。私たちは一生弱さと闘い、忍耐力を身に付けなければならないようです。忍耐は受動的ではなく、非常に積極的です。それは集中力だからです。どんなに固い石でも、水の流れの強さによってではなく、むしろ間断なく繰り返される水の流れによって磨がれるのです。これこそは力強い忍耐です。
 今、読まれた「毒麦のたとえ」を耳にした皆さんはどんなことが心に響きましたか。普通どんな農夫でも、肥料を無駄にせず、畑を豊かにさせるために、邪魔になる毒麦はすぐに抜き取るでしょう。ですから「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」という「毒麦のたとえ」の聖書箇所に対して納得することが出来ないと思われた方もいるでしょう。しかし、今日の第一朗読「知恵の書」を通して「力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもって私たちを治められる」と、教会は「忍耐強く憐れみ深い神の姿」を仰ぎ見るように、私たちに示しています。
 先週の日曜日の「種蒔きのたとえ」を通して、何処にでも種を蒔く、つまり、神のみ言葉を絶えず熱心にのべ伝えるイエスの姿を見ました。今日この「毒麦のたとえ」を通しては、この毒麦が罪人であって、この主人が父である神なのです。神の国、いわばこの世におけるイエスの教会は一人も除かれることなく、神に招かれる集まりであることを私たちに示しています。「十人十色」と言われたように、イエスを慕って集まってくる共同体には様々な人がいます。この集いには社会の底辺で労苦を負っている人もいれば、地位のある人も、また強い人もいれば、弱い人もいるはずです。そして当然キリストにおける教会共同体はイエスに近づく動機も心も人によって違うものです。私たちは完全なものではなく、むしろ絶えず「回心と希望」を持って、神と共に完全なものへと進んで行くものなのです。
 ここで注目したいのは、イエスは多くの神の言葉である種を蒔き、神は忍耐と愛を持って、あらゆる所に蒔いた種の実りを絶えず待っておられるということです。神は悪に対してさえ憐れみ深く、忍耐強く宣教します。「刈り入れの時」とは私たちの最期の時です。その時は、毒麦は必ず焼き尽くされます。天の国は人の想像を超える程の豊かな「刈り入れの時」を迎えます。イエスはそれを知っているので、悪に対しても憐れみ深く、忍耐強く宣教します。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」という主人の態度は、寛容の心を持っておられるとともに愛情深い父である神の姿です。
 ですから、第一朗読の「知恵の書」の最後にありますように「神に従う人は…こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と、キリストの後について行く私たちに愛と希望を持って生きることを求められるのです。イエスは確かに私たち一人ひとりに良い種を蒔かれています。十字架上のイエスを通して神の愛に目を向ける私たちは、第二朗読の中の「神の御心に従って、聖なるものたちのために執り成してくださる。」というパウロの確信に支えられています。自分ですら受け止めることが難しい弱さや罪などを、愛を持って受けとめてくださる神を信じ、祈りのうちに私たちに働かれる聖霊に委ねる心を育てて行きましょう。



2020年7月19日
ハー・ミン・トゥ神父


年間第16主日_印刷用(PDF形式)



2020.07.18 Saturday
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