cross.png 10月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
豊かな刈り入れの時

 ようやく秋の気配を感じるようになって来ました。今年の夏は信じられないような数々の自然の異常現象が多くて、言葉で言い表せない程心身共に疲れ切ってしまいました。まだ傷跡と共に悲しみが残っています。しかし一方では、こんな非常時に、目を見張るような出来事が報道されていて驚いてしまいました。北海道での大地震の後、利益第一である筈のレストランでは無料で食事が出され、ホテルではただで温泉へ入ることが許可され、商店では温かいスープなどが提供されていたのです。1ヶ月が過ぎましたが、町民もフリーマーケットという形で支え合っているのです。こんな時ならば、幾らでも高くして儲ける事が出来るのに、本当に立派な態度です。誰もが大変な状況の時に利益を度外視して只々助け合う姿を見ていると、大災害のもたらした悲惨さが人々の心を強くして絆を深めているのを感じました。自然災害に遭う事は大変なことです。でも、その中でこれ程温かく美しい人間の心を見る事ができたのは、奇跡です!人々の絆・繋がりは大きな実りです。
 さて皆さん「一体あなたの持っている物で頂かなかったものがあるでしょうか。」(1コリント4:7)というこの問いを心に留めてみてください。人間は生れた時からその存在すべてが借りるところから始まっています。その借りたものを返す事が生きることなのです。私たちは他者に与えなければ収穫する事は出来ないのです。生きるためには、自分が受けるより与え続けていくことが必要です。そこに思いがけないもの、本来の人間の心が生まれてくるのです。特にキリスト者はこのことに召されています。
 教会典礼に於いて「ロザリオの10月」を迎え、わがままを優先しがちな私たちも教皇レオ13世の言葉「ロザリオは社会を害する悪と戦うための効果的な霊的武器である」を意識しながらロザリオの祈りの力に信頼して自分のためだけではなく他者のためにも時間を費やして祈って下さい。機械文明のただ中にある私たちキリスト者の心も豊かになり、恵みを頂く事が出来るでしょう。自分が与える事の出来るものには限りがありますが、得られるものには限りがありません。
 「ロザリオの祈り」を一つの鐘と譬えるとすれば「アヴェ・マリア」の一つ一つの鐘を高らかに鳴らして、願って行きましょう。この祈りを繰り返し唱えることによって、鐘の音は大きくなり、私たちの願いは直接神の元に届き、受け入れられるのです。さあ皆さん「人生のリズムを刻む単純な祈りであるロザリオ」を祈りましょう。



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2018.10.21 Sunday
cross.png 9月のメッセージ
トゥ神父
Paulus HA MINH TU, MF
つぼみ程の希望

 自然が巡って夏になると、暑くなるのは当然です。しかし今年はいろんな国の人々が、予想出来ない程の異常気象で危険な暑さや大雨などで大変苦しめられました。これでも9月だろうかと思う程の暑さが続いています。季節は秋へと確実に向かっているのです。同じ気温であっても秋と聞くと秋風のひんやりしたものが感じられます。本当に不思議です。
 さて、貴重な休日の多い8月を皆さんはどのように過ごされましたか。厳しい猛暑をしのぐため、テレビでも様々な方法やグッズが紹介されていました。私たち自身も恐らく目・耳など五感で、少しでもヒンヤリした涼感を得るための工夫を色々とした事でしょう。そういう意味では異常な暑さを少しでも快適に、また健康に過ごすための良いアイディアを生み出すための一つの機会だったと言えるかもしれません。
 社会の中でも様々な問題が起りました。医学部を目指す女子受験生の点数を意図的に低くしたり、若者が心身共に健全に成長して行くためのスポーツを指導者である大人が好き勝手に利用したりと、目を覆いたくなるような事実が報道されました。自然に対しては工夫してうまく生きている人間も、社会にあっては、自分自身の心地良さのためだけの工夫をしている人がいるのです。自然が与えた厳しい暑さも秋の実りには欠く事の出来ない大切なものであるように、私たち人間の社会でもしっかり目を覚まして工夫してより良い社会貢献をして歩みたいものです。
 信仰の面でも私たちは工夫して行かなければなりません。しっかり意識していないと、目に見えない信仰の中の大切なものが失われて行くようです。その為に、9月の典礼では、14日に「十字架の称賛」が祝われます。十字架を称賛するのは意味があるからで、偶然ではありません。一年の典礼暦の中に用意されているのです。私たちが礼拝する対象は十字架ですが、苦しみではありません。むしろ、その苦しみの中の喜びです。私たちには、十字架の上に花を咲かせる希望があるのです。十字架は救いの道であり、希望を与える神の愛への招きです。十字架の上で自らを犠牲にしたイエスの姿に愛を見ることが出来ます。ですから、聖パウロは誇りを以って「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:2)と明言しているのです。
 キリストが苦しみや死を受け入れたのは、苦しみや死が人生の目的だからではなく、むしろ「神の子であるイエス・キリストがこの世に来たのは苦しみを滅ぼし、この十字架を排除するためなのではなく、我々と共に苦しみを受け、この十字架に我々と共にかけられる為である」のです。
 今年の暑さも、自然災害も、様々な試練や問題などは一つの十字架です。それらの十字架を称賛に値するものへ変えて行くには、工夫しなければなりません。そのためにはただ「今、しばらくの間、いろいろな試練に苦しまなければならなくても、心から喜べ。試練を経たあなたがたの信仰は金よりもはるかに尊い」(1ペトロ1:7)という言葉を信頼して生きたいと思います。



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2018.10.21 Sunday

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