cross.png 聖霊降臨


 
聖霊が燃える時

 肌寒かったり、蒸し暑かったりと不安定で落ち着かないこの頃のお天気は、正に梅雨の走りのようです。有り難いことにようやく「緊急事態宣言」が解除され、重苦しい空気が少し払拭され大いに癒されました。先日は、私の司祭叙階10周年に当たり、思いがけず教会の皆様から素晴らしいお祝いの寄せ書きを頂き、こんな時なのに、と嬉しいサプライズに胸が一杯になりました。教会委員をはじめ、信徒のお一人おひとりに感謝致します。何年経ってもいまだに未熟な私です。自分の努力は微々たるものでしかないと日々感じております。だからこそ、多くの方々の温かいお祈りと神の計り知れないお導きによって、これからも皆さまのために働いていけたらと思っています。今後もよろしくお願い致します。
 緊急事態の49日間は長く感じたのに対して、50日間の復活節の日々はあっという間に過ぎてしまい、何と「聖霊降臨」の祭日を迎えました。復活され天に上げられたイエスが私たちに約束された聖霊を、喜んで迎え、それぞれの場で実感して頂けたらと思います。聖霊の働きとその恵みを頂いている教会−つまりイエスの弟子たちだけではなく私たちにも、人を赦し、愛することが可能になるように祈っていく力が誕生するのです。聖霊が注がれなければ教会が誕生しなかったという意味で、私たちにとっては記念すべき祭日です。
 ところが、この聖霊については、私たちはなかなかピンと来ないかもしれません。第1朗読の「使徒たちの宣教」の中で、聖霊は「激しい風」また「炎のような舌」という、目に見えるしるしとして表現されています。聖霊は燃え立つ炎のように、積極的に生き生きとして躍動している神の姿です。

 私は、この頃「日本昔ばなしの言葉絵本」にはまっています。火を灯す、囲炉裏に関心を持っています。そして、テレビで冬に雪の積もった家の中で囲炉裏に赤々と炎が燃えている光景を観たことがあります。この光景を思い浮かべながらイエスの弟子たちの背景を考えてみました。森や林から拾って集められた、いわば家を造るにも使えず、役に立たない、燃やすだけの薪です。でもこの薪は、囲炉裏に投げ入れられ一旦火がついて燃え出すと、完全に変わります。燃やされた木々は美しく炎を生み出し、寒さを凌ぐことが出来て、その上に料理も作れます。何より周りを明るく照らすのです。夏のキャンプファイアーでも、組まれた木々が燃え出すと、真っ暗闇の中でそこだけが命を与えられたかのようにゆらゆらと炎が動き、大きな力を感じさせられます。価値のないと見られた薪は炎に燃やされることで新たな命を得て、新たな使命に生きるかのようです。聖霊が炎であるならば、薪はイエスの弟子たちと言えるのではないでしょうか。
 今日の福音の冒頭に「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。イエスが十字架につけられた時から恐れて戸を閉じていた弟子たちは、心を一つにして集まっていたのではありませんでした。それは弱々しい人間である弟子たちでした。イエスの受難の際に、イエスを拒み去ってしまった弟子たちです。逃げることしか出来ない弟子たちは、イエスへの期待ではなく、闇のような絶望とイエスへの愛を裏切った悲しみを抱きつつ集まっていたことでしょう。そして、弟子たちの心を見通しておられたイエスは復活して彼らに現れ、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。聖霊が弟子たちの上に降ると、気の弱い臆病な心ははっきりとした勇敢な心へと、彼らの人生が180度変わりました。
 この聖霊を受けた弟子たちは、受け身ではなく特別な使命を頂いた積極的に行動する者に変わったのです。弟子たちの心は聖霊に満たされ、心の奥深くに持っていたタレントを呼び覚まされ、燃え立ちました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)という聖パウロの言葉によれば、弟子たちは燃え立つ炎の心を持つことで、力強い愛が生まれてくるのです。その上「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪が赦される」というイエスに委ねられた権限と共に、弟子たちがこの世界に広がって行きました。
 私たちは弱くはかない者として創られました。自分の力では、どうすることも出来ないことに直面することがあります。しかし、洗礼と堅信の秘跡を通して、私たちは聖霊を受けました。聖霊は一人ひとりの中で力強く躍動しながら、それぞれに神から頂いた賜物やタレントを愛の炎として燃え立たせ、力強く生きています。このタレントや賜物は正に薪です。キリスト者として私たちは、日々の生活の中で、この薪を燃やす火が必要であることに気づくのではないでしょうか。火こそ、私たちの心の中で働く聖霊の力です。
 第2朗読の最後に「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」という聖パウロの確信に励まされ、その教えを心に刻み、私たちの中におられる聖霊が燃える時を祈りましょう。そして何より大変なこの状況の中に、愛の実践を通して福音の喜びを人々に伝えることが出来ますように、聖霊の息吹・愛の炎を頂き、共に救いの道を歩んで参りましょう。


 

2020年5月31日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.29 Friday
cross.png 主の昇天


 
バトンをしっかり持って

 何によっても止めることが出来ない程の生命力を感じる緑の葉っぱが、曇り空にその輝きを隠され雨に打たれることが多い一週間だったように思います。季節が移り変わっていく中、典礼暦においては「主の昇天」を迎えました。今年の主の昇天は5月21日の木曜日ですが、司牧的配慮からたくさんの信徒が共に祝うことが出来るようにと、日本を始め多くの国では、次の日曜日である本日に移動したのです。
 わたしがこの中原教会に赴任して2年2ヶ月程ですが、まだまだ慣れない習慣、出来ないことが多く、あっという間に時間が過ぎて行くように感じます。時間は私を待ってくれません。しかし新型コロナウイルスの影響を受けた3ヶ月、皆さんとほとんど会うことが出来ずに、首を長くしてひたすらミサの再開を待っています。待ち望む時の時間は何と長いことでしょう。時間の感覚は不思議です。
 第一朗読の「使徒たちの宣教」では「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」と記されています。復活されたイエスはこの間、弟子たちの信仰を強くするため、度々弟子たちの前に現れました。ですから、弟子たちが復活されたイエスとの四十日間をどう思ったか、少し分かるような気がします。恐らく、もっと学びたい、もっと聴きたい、もっと一緒に居たい、と思っていた弟子たちにはあっという間のとても短い時間だったことでしょう。そして「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と「主の昇天」の出来事を私たちに示してくれました。「主の昇天」は、正にイエスと弟子たちのこの世における最後の別れです。「別れ」と言うと、無理やり引き離されてしまうような思いや絶望や行き詰まりなど、私たちにとっては、別離の悲しみというイメージが浮かぶかもしれません。しかし、イエスが弟子たちに示す「別れ」はそのようなものではありません。自ら公に天に上げられることによって、復活されたイエスは再び以前のように皆の前に現れることがないことを弟子たちに知らせました。この別れが意味するのは、神である父から与えられた使命を成し遂げられたイエスのゴールであり、次は弟子たちの出番なのだということです。イエスがこの世を去られ、天に上げられても、弟子たちは一人ではありません。むしろ何度も現れいろいろ気付かせてくださったイエスが、共にいることを強く信じて歩んでいく人間として、イエスの使命のバトンを引き継ごうとしているのです。高まって行く弟子たちの信仰、それが確立されるのは聖霊が訪れる時です。弟子たちの信仰を完成するものは聖霊の働きです。
 そして、イエスは私たちにも「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられ、そのバトンも渡された、と言えるのです。それは、イエスとしっかり結ばれる絆を深く感じながら、イエスの受難と復活を伝える、という使命です。しかも、イエスの受難と復活を通して、この神の愛を単に自分たちのうちに留めるだけではなく「他のキリストをまだ知らない人々にも神の民として永遠の命を分かち合っていきなさい。」と呼びかけられるのです。イエスから大事なバトンを受け取った私たち一人ひとりの手を通してその使命が広がり、実現していくのです。そして何よりも私たちは復活されたイエスと出会った喜びをもって、生かされ生きているのです。だから生きる希望をもたらす使者として証しする者となるのです。
 イエスは私たちが託されたバトンを持ってゴールできるように、この世を離れる前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という一つの約束、希望に満ち溢れる保証を残してくださいました。すなわち、私たちは一人ぼっちではなく、いつも主イエスに結ばれてイエスと共にいるのです。復活されたイエスは天に昇られました。しかし天とは時間や空間を越えた、つまりパウロが指摘した「神は、キリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の座に着かせた」ところなのです。
 私たちは天のお父さんの子供です。お父さんが子供の成長を見守るのは当然のことです。教会は「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」と宣言し、私たちに大きな希望を与えています。イエスからバトンを受け継いだ私たち一人ひとりは、頂いた使命を生き果たし、ゴールインしたいと願っています。
 人生の様々な動揺や試練、特に世界的なレベルで体験したこともない今回のコロナ禍の痛みを通して、私たちの信仰を確かなものにしていきましょう。特に、神の愛、天の国は既に今ここにあることを心に留め、永遠の命を目指す大きな希望を与えられていることを思い出しましょう。大きな希望を思い出す時、イエスから託されたバトンをイエスと共に握っていることに気が付き、私たちがまた一歩力強く踏み出すことが出来ますように、共に祈り続けましょう。


 

2020年5月24日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.05.22 Friday

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