cross.png 復活節第3主日



  
正念場

中庭の花
 訪れる人がすっかり少なくなった教会の庭の銀杏の若葉も出始め、色んな花々が一生懸命咲いています。教会に折角咲いた花々も、温かくなった日射しも、時に降り出す雨も、皆さんと共に味わえたらと、つい私は思ってしまいます。私は自然の中には人がいて生き生きとしている風景が好きです。共同体の皆が共に集ってミサが出来なくなってほぼ2ヶ月になりました。忙しい時には、のんびりしたいと強く望んでいたのに、ゆっくり出来る時間が増え過ぎるとかえって心身ともに疲れてしまい、いかに普通の生活が貴重だったのかと振り返る日々です。何事も期待が大きければ大きい程、それが裏切られると、その絶望感は大きくなるものです。多くの人々にとって、待ち望んだ春の訪れと共に、待ちに待った大型連休が間もなく始まりますが、新型コロナウイルス感染拡大により、オンラインの帰省やオンライン飲み会などが呼びかけられています。折角の楽しみがなんとも味気なく物寂しく思います。そして今年の7月に開催予定だったオリンピックが来年に延期になり、どれだけ多くの人が戸惑い、残念に思ったことでしょうか。私たちもそれぞれ大事な予定を変更し、キャンセルすることを余儀なくされ、どれ程心を痛めていることでしょう。仕事を失った人々の中には自分の人生の道が閉ざされてしまったと思った人もいることでしょう。

   

 今日の福音に登場した二人の弟子にとって、イエスはイスラエルを解放してくれる力に満ち溢れた救い主で、この世の王として期待していました。しかしイエスの十字架の死は彼らのイエスに対する期待を裏切り、彼らの希望は完全に打ち砕かれました。確かに期待が大きければ大きいだけ、イエスの死の悲しみと苦しみは深いものです。そのような気持ちでこの二人は首都エルサレムを離れ、自分たちの故郷エマオへ帰って行ったのです。その道中で「二人は暗い顔をして立ち止まった」と記されています。たった今出会って「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」という声をかけてくれた人がイエスだとは分からなかったのですが、この時が、この二人にとっての正念場だったのです。そして二人の弟子は、このイエスを否定することなく、むしろ会話をし続けたからこそ、見事に復活されたイエスであることに気付けたのです。ここに大きなチャンスがありました。もしも二人がイエスを否定し、イエスだと気付かなかったら、彼らは絶望のどん底に突き落とされたままだったでしょう。
 暗く重い気持ちで希望のない中、二人の弟子は復活されたイエスだと気付かないまま、イエスと歩きました。イエスが救い主の受難の必然性を説き、聖書全体にわたって「ご自分について書かれたこと」を説明すると、「我々と共に留まってください」と、この二人はイエスを無理に引き留めて願ったのです。それから、イエスは共に食事し、パンを取って祝福し、裂いて皆に分け与えました。その時、彼らの心の中には、信じる心が燃えていました。彼らは復活されたイエスの姿が自分たちの知っている姿とは異なっていてもイエスだと気付きました。彼らは、目が開かれ、信じ、復活されたイエスに出会ったのです。復活したイエスが彼らに出会う場所は墓ではありませんでした。私たちが復活したイエスに出会う場所も墓ではありません。
 エマオへの道の行き帰りは全く同じですが、とても不思議な道です。始めは、夕暮れにもかかわらず周りも全く見えず、道のりも長く、目的も見えない、絶望と葛藤の中にあったエマオ行きです。しかし復活されたイエスと出会ったと分かると、夜なのに早く歩くことが出来、道のりも短く、正に喜びに満たされ、明るい気持ちを実感しながらのエルサレムへの帰り道です。これがエマオへの道の不思議です。彼らの人生は、復活されたイエスと出会い、生きる意味も生まれ、希望と生き甲斐に満たされ、変えられた、大逆転の人生でした。

 私たち一人ひとりの人生は、いつも平らで穏やかとは限りません。荒波が襲ってくることもあります。まさに今、新型コロナウイルスの感染拡大によって世界中の人々が置かれている状態は、試練や苦しみに遭い、絶望に陥り、先の見えない辛く暗いものです。信仰生活において、私たちの人生はまるで、今日の福音のエルサレムからエマオへ行く道と譬えられます。正にエマオへの道は私たちの道です。
 この道を歩みながら、復活したイエスと出会った喜びを知っている私たちは、祈りのうちに、どんな試練や苦難にあっても、この道を乗り越えて、歩むことが出来るのです。この確信を持って、今この困難の中でワクチンや薬を作りだすために心血を注いでいる人々がいることや、必死の治療や看護によって退院出来る人が増えていること、緊急事態宣言によって新規感染者の増加が少し落ち着いてきていることなど、まだまだ灯火ですが、希望の兆しが見えて来ました。希望への正念場の時です。この希望のうちに、今私たちに出来ることを精一杯果たしていければと思います。たとえ、私たちは共にいなくても、今私たちは正に正念場にいるというこの気付きの時をしっかり捉え、復活されたイエスと出会う喜びを持ち続け、日々お祈りしましょう。

2020年4月26日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.25 Saturday
cross.png 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)



  
神の愛の豊かさを。

 主の復活を祝った後の八日間、死から復活されたイエスの喜びをゆっくり味わいながら、この八日間の締めくくりとして「神の慈しみ」の祭日を迎えました。それぞれの場で祈りの仲間やミサが挙げられている教会を思い浮かべて、改めて復活の神秘を黙想しながら、主イエスの復活に示された神の慈しみを通して憐れみ深い愛を強く感じたいと思います。そして、新型コロナウイルスの感染拡大により、生活の不安、社会の混乱、心身共に大変な時に直面している多くの人々、今共に苦しんでいる私たちが、神の慈しみを浴びて力付けられながら、更なる生きる希望を見出すことが出来ますように、より一層祈りましょう。

 さて、私たちは生きる限りは、様々な不安や恐怖心を持っています。先が見えない今は、目に見えない新型コロナウイルスへの恐怖が多くの人々の日々のあらゆることにまで影響を及ぼしています。この不安は、私たちを落ち着かなくさせて、より多くの心配を心に残しています。何らかの形で恐れを体験した私たちは、今読まれた福音の弟子たちの気持ちを少し理解出来るのではないでしょうか。
 3年間も共に生活し、師として尊敬したイエスの十字架の死を目の当たりにした弟子たちは、自分の家を閉じて鍵をかけていました。勿論ユダヤ人を恐れているということもありますが、むしろ愛するイエスへの信仰が揺らぎ、半信半疑という不安などの心の葛藤もあったのではないでしょうか。弟子たちの心をよく理解したイエスは現れる度に、まず始めに「あなたがたに平和があるように。」という日常的な挨拶から話しかけました。しかも3度も「シャローム」という挨拶で呼びかけました。これは単に日常生活の挨拶ではなく、それ以上の意味を込めて使っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)復活されたイエスから弟子たちへの恵みとしてプレゼントされたものなのです。
 弟子の中には、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」という疑い深いトマスがいました。実際に見なければ信じることが出来ない後の時代の私たちのようなトマスを「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と具体的な行動で招き呼びかけました。「見なくても信じることが出来る」信仰へと導いておられるのです。傷ついたイエスの脇腹に手を入れてみなければ信じることの出来ない、心固く不完全な私たちも、そろそろ目を覚まし、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」イエスの任務が、弟子たちに分け与えられ、時のしるしを読み解くことを求められていることに気がつく時ではないでしょうか。その任務とはイエスから与えられた「平和」をこの世に伝えることです。弟子たちはイエスから任務だけでなく、息を吹きかけられ、霊を受けました。この霊は、弟子たちを新たに創造するものであり、任務を全う出来るようにと与えられたものです。イエスは必ず任務と共にそれを行う「目には見えない」力をくださっています。使徒ペトロは、第2朗読の中で「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」とはっきり断言して、私たちの信仰を映し出しました。
 トマスをはじめ、弟子たちは、死から復活された輝かしく綺麗な姿のイエスに出会うはずでしたが、釘あとのついた両手と刺し貫かれた脇腹を見て改めてイエスの身に起った出来事の中にある神の慈しみの証人となるように招かれました。私たちも、復活された主イエスと繋がり、新しい息吹を受けて力を頂きながら、神の慈しみ・愛の豊かさの証人として与えられた使命を忠実に果たして参りましょう。

 今わたしは次のような祈りを続けています。
 神の慈しみへの礼拝において、最も重要なのは、神に対する人間の信頼です。神への信頼を起こしながら、イエスの十字架上の死を思い出させる時間、つまり、午後三時に、イエスの受難を黙想し、この受難がもたらした恵みを求めて「神の慈しみへの祈りの花束」の祈りを捧げます。
 普通のロザリオを用いて、次のように唱えましょう。
 初めに「主の祈り・アヴェ・マリア・使徒信条」

 後に、大珠で、つまり主の祈りの珠のところで1回
 「永遠の父よ、わたしたちと全世界のすべての罪のあがないのために、あなたの最愛の子、私たちの主イエス・キリストの御体と御血、ご霊魂と神性をみ前に捧げます。」

 小珠で、つまりアヴェ・マリアの珠のところで10回
 「イエスの大いなる受難によって、わたしと全世界に慈しみを注いでください」

 以上を5連唱えたら、締めくくりに3回
 「聖なる神、聖なる全能の神、聖なる永遠の神よ、わたしたちと全世界を憐れんでください」

 第1朗読の中で、イエスの弟子たち、つまり初代教会は「毎日ひたすら心を一つにして、神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事し、神を賛美します」という信仰生活を築きました。この温かい共同体の姿を、どれ程今の私たちは心の奥深くを熱く燃え立たせながら待ち望んでいることでしょう。私も皆さんにお会い出来る日を思いながら、お祈りさせて頂いています。
 皆さんも体調や時間などが許す限りそれぞれの場で一連でも祈ってみませんか。

2020年4月19日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.17 Friday
cross.png 主の復活(日中ミサ)
第1朗読 使徒言行録      10章34a、37〜43節
第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 5章6b〜8節
福音朗読 ヨハネによる福音書     20章1節〜9節
※ リンクのない朗読箇所はご自身の聖書をお読みください



  
空っぽになっても…

「今日こそ、神が創られた日、喜び歌え この日を共に」というキリスト者の信仰告白を致しましょう。私たちにとって、一番大切な日・復活された主イエスをお祝いする日です。そして、復活された主イエスのもたらされた復活の喜び・永遠の命に私たちも与ることが出来る、私たち一人ひとりの日でもあります。日々の暮らしの中で様々な不安に陥っている私たち、また新型コロナウイルスの脅威により、悲しみの中で復活祭を迎えられた方々も、死に打ち勝って蘇られた主イエスが一人ひとりを力づけ、生きる希望を燃え立たせてくださるように、沢山の祈りを捧げたいと思います。

 皆さん、何年経っても、愛する人の死は私たちの心から離れることはありません。祈るだけではなく、少しでもそばにいたいと思い、ご遺骨をいつまでも自分の家に置いたり、納骨しても度々お墓参りしたりするものです。また、愛する人が大切にしていたものや関わりのあったものを処分することが出来なかったりもします。それは愛する人の死という悲しさ、淋しさの中にあっても再会への大きな希望を心から願うからです。そして亡くなった人が見えなくなっても、かえってその人が身近にいることに気付き、絆が強くなり愛されていたことを痛感して、そこから第二の自分の人生が始まり、変わって行くのです。
 私は「I believe in death/わたしは死を信じます」というある詩を思い出しました。「わたしは死を信じます。死が人の一生の一部で、もっと完全に生きる為に死ぬのです。私たちは一つの段階から次の段階へと生きながら、少しずつ、わがまま、偽り、罪に死ぬ為に生まれたのです。私たちは孤独な時、悲しみの時、死の感覚を味わうのだと思います。そして、信仰を持っている人にとって、死は光を消すことではありません。ただ夜明けが来たので、ランプを消すのです。」という意味だったかと思います。
 復活の信仰については、頭ではなかなか納得し切れないものがあります。二千年前の弟子たちもイエスの死後、大きな後悔と共にどれ程悲しく、淋しく、絶望したことでしょう。弟子たちが描いていたビジョンがまるで消えてしまい、心には満たされることのない悲しみの穴が空いてしまったことでしょう。それでも、愛するイエスに会いたいという心の声から、マグダラのマリアをはじめ弟子たちもお墓参りに行き、そこで空っぽの墓に出会いました。
 一般的に、墓は死に支配されている所です。イエスの死を確認するために墓に行きました。しかし空っぽの墓と出会ったマグダラのマリアや弟子たちは、イエスの墓から石が取り除かれているのを肉体の目で見て、それから頭を巻いていた亜麻布が離れた所に置いてあるのを、じっくり観察して、次に心の目で真理を洞察して、信仰の目で復活のイエスを見ることが出来たのです。死からスタートして復活にゴールする大きな転回です。ですから、主のご復活の日に当たり、教会は葬られたイエスの「空の墓」を私たちに示し、復活されたイエスを祝うように招いています。勿論教会は、この空の墓をイエスの復活の証拠としてではなく、むしろイエスの復活への信仰に導く大切なしるしとして取り上げています。
 空っぽの墓は問いかけています。弟子たちは空っぽの墓を、見て信じたのです。彼らに信じる心を呼び起こさせました。空っぽの墓そのものは何も語らないのに、多くのことを教え、気付かせてくれたのです。そして彼らは少しずつ、イエスが復活されたことを信じるようになったのです。信じるためには、空っぽの墓と亜麻布を見るだけでは、十分ではありません。もう一つの別の目、心の目が必要です。これが大事です。空っぽの墓にはイエスはいないのに、弟子たちは何故信じることが出来たか不思議に思うのではないでしょうか。それは空っぽの墓にはイエスの弟子たちへの愛が溢れていたからです。
 マグダラのマリアもヨハネもペトロもイエスが愛してくれたからこそ、空っぽの墓の出来事を通して心の目で見て気付きました。イエスが亡くなってから、より一層イエスの自分たちへの愛の強さを感じたのです。愛する人の死という大変な悲しみの中にあって気付く、大きな愛なのです。復活されたイエスを伝えられた人々も、次々と人生を変えられていくのです。今まで何も見えなかった私たちが、見えるようになるのです。これが復活です。空っぽの墓は復活のしるしではないのに、復活されたイエスに気付き、心から新たに確信することが出来ます。私たち人間に関心を持ち、赦し、愛し、仕えてくださった方こそが、私たちの救い主です。だから、ミサに与る度に、私たちは「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」という信仰の神秘を唱え、死を超える命への希望を人々に力強く告げ知らせることを意識しているのです。

 教皇フランシスコは数年前に「復活は慈しみと愛の神秘だから人の言葉で言い表すことは出来ない。」と言われました。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」ということは、人間の理解を超えた出来事です。私たちは日々沈黙のうちに、空っぽの墓に思いを寄せ心からの祈りを通して、イエスの復活の出来事の一つ一つを問い直してみましょう。主のご復活、おめでとうございます。

2020年4月12日
ハー・ミン・トゥ神父

献香2 献香1
復活のロウソクと
聖水への献香
これからキリストの御体と御血になる
献げ物への献香
2020.04.11 Saturday
cross.png 復活徹夜祭
創世記            22章1〜18節
出エジプト記     14章15節〜15章1a節
バルクの預言   3章9〜15、32節〜4章4節
ローマの信徒への手紙      6章3〜11節
福音朗読 マタイによる福音書 28章1〜10節
※ リンクのない朗読箇所はご自身の聖書をお読みください



  
希望の光

 復活された主イエスの力と真の平和が困難のうちにある私たちに豊かに注がれ、私たちと共にこの危機を乗り越えて行くことが出来ますように、皆さん一人ひとりにお見舞いを込めて、ご挨拶を送らせて頂きます。主のご復活のお慶びを申し上げます。おめでとうございます。
復活のロウソク
キリストの光、
神に感謝
 例年なら、今の季節は春の温かさと咲き出した沢山の花々と共に、キリスト者は復活のロウソクの周りに集まって、大喜びのうちに賑やかに祝っているはずです。しかし残念ながら、今世界中の人々はそれが出来ません。互いに接触を避けることが第一の感染予防策だと思いますが、無意識の中で、私たちは心の距離をも広げてしまう恐れがあります。まるで隠れクリスチャンのように生きている今の私たちは、何もかも控えた環境の中で、それぞれの自宅で復活された主イエスを迎えています。それでも「静まりかえった私たちの町に、復活祭の福音が響き渡るでしょう。」という教皇フランシスコの言葉に大変力付けられ励まされています。新型コロナウイルスの感染拡大の中にいることを考えれば、毎年盛大に祝うこの喜びの日を、今年は心から喜べないことは大変残念ですが、今も尚増え続けている感染者の方々やそのご家族、医療従事者、看護者の方々のためにも一層祈り続けたいと思います。

 新型コロナウイルスの不安と恐怖が増大しつつある中での大切な過越の三日間、私たちは受難の道に入られた主イエスの気持ちを大事にしながらも、まるで真っ暗なトンネルに閉じ込められているような思いを拭い去ることは出来ませんでした。実際には、武漢をはじめ多くの国々は、今年になってから新型コロナウイルスと闘うという長い聖週間、受難の道を歩み、多くの人々は疲れ果ててしまいました。今世界中の人々が回復のための光を獲得したい、と強く求めている時です。
水の祝福
 閉ざされた教会は、年に一度の復活の聖なる徹夜祭を迎えました。今夜の典礼は単なる儀式ではありません。またキリスト者の習慣として、毎年同じことをただ繰り返しているわけでもありません。むしろ世界中の暗闇にいる人々を救う典礼なのです。「光の祭儀」と「水の祝福」は、一年の典礼の中心である今夜のミサの中でしか行われません。これを大切に行い、疲れ切った人々を温め、飢え渇いている人々を満たすために、必要不可欠な復活のロウソクを通して光を手渡し、洗礼の更新をして、平安のうちに永遠に生きる命に導くものです。
 今夜は生きる命を与えられる日であり、天地創造の第一日目に与えられた「光」に始まり、今尚続いている神の創造の出来事を皆で讃える日です。その光は私たちを希望へと導き、永遠の命を生き続けることが出来ます。光は暗闇を追い払うのは勿論ですが、何より人間の苦しみや悲しみも映し出し、更には、心の中に希望があることも思い出させます。今私たちは出口の見えない長いトンネルに放り込まれているように感じているかも知れません。しかし必ず出口はあると信じ、この暗闇と闘い、出口を見つけなければならないことを世の人々に示すべきです。

 今夜私たちが復活のロウソクから頂いた光は自分からでも隣人からでもなく、神様から頂いたものです。輝いている復活のロウソクのもとに、教会は「神の子イエスは真の世の光であり、人間に希望と喜びを与える主」であることを明らかに宣言します。復活のロウソクは復活された主イエスのしるしです。「聖週間ビデオメッセージ」の中で教皇フランシスコは「復活したイエスにおいて、命が死を打ち負かしました。この過越の信仰は、私たちの希望を育みます。わたしはこのことを、皆さんと共に今夜、分かち合いたいと思います。それはよりよい時への希望です。その時、私たちは悪とこのパンデミックからようやく解放され、よりよい状態にあることでしょう。希望、それは決して期待を裏切らない希望です。幻想ではありません。希望です。」と語られています。
 イエスが復活されたからこそ、この希望があるのです。今新型コロナウイルス感染者が次々に病から復活しています。ここに大きな希望があります。私たちの中原教会の庭に今、沢山の雑草が出て来ています。その生命力、特にドクダミの生きる力は凄いです。草が出て来ないようにと敷いてある砂利の中からもしっかりとどんどん顔を出しています。冬にすべて死んでしまったかのようだった草も花も、今年も、また私たちの大切な自然の一部として復活しています。なんという生命力!大きな希望を感じさせてくれます。「神はその独り子をお与えになった程に、世を愛された」(ヨハネ3:16.)。やはり、神が愛の働きのすべてです。「独り子を与える程、世を愛された」神は当然私たちを愛によって導かれ、私たちを復活させてくださいます。正に愛の力です。
 「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(1コリント14:17)というこの言葉を改めてしっかり心に留めて、自らが復活された主イエスの証人として、命の良い知らせ・GOOD NEWSを運ぶ者として、派遣されていることを再確認いたしましょう。

2020年4月11日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.10 Friday
cross.png 聖金曜日(主の受難)



絶えず愛に渇く神の子

十字架称賛
十字架称賛
 今日は、全世界のカトリック信者にとって、大切な日です。神の子イエスの死を想い起こす日です。この数ヶ月、世界中に蔓延している新型コロナウイルスによって犠牲になられた10万人近くの方々の安息を特に心を併せて祈りたいと思います。そして不安のうちにある私たちも、思い掛けない規模の死のニュースを聞き、死について考えさせられる貴重な体験をしています。あたかもイエスの死の意味が私たち一人ひとりに迫って来ているかのようです。 聖金曜日のヨハネによる受難の朗読の中で、イエスは息を引き取る直前、痛みと侮辱の中で、また深い悲しみと孤独の中で「渇く」という、人生における一番辛い時に、その言葉を口にされました。父である神に対しても、弟子たちを通して人間に対してもご自分を与え尽くして、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り言われた一言です。ですから、私たちは「キリストは人間の姿であらわれ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、自分を低くして従うものとなった」という詠唱を通してキリスト賛歌を讃えたのです。
 神の子イエスは、最高の愛は痛みと流血を伴うこと、また、それらを避ける術を知っているにもかかわらず、最後までありのままに受け入れておられるのです。神の子イエスはすべてを受け取りました。そして、私たちは愛の業の頂点として救いの道に導かれるのです。第2朗読の中で「キリストは従順を学ばれ、御自分に従順であるすべての人々に対して救いの源となった」と言われました。つまり十字架はただの苦しみで終わりません。産みの苦しみであり、喜びの伴う苦しみです。神の子が息を引き取る時、人々は新たに生まれ、愛する弟子とされるのです。人間の愛を切望しておられる神の愛を私たちに注がれるために、神の子イエスは私たちを渇望しておられます。息を引き取ったイエスは、神と私たちにバトンタッチをしたのです。命の豊かさを渡してくれました。イエスの死は、永遠の愛を表しています。

 今夜の典礼の中で「十字架の崇敬」が中心となりますが、共に集って十字架の崇敬を行うことは出来ませんので、それぞれの場で、十字架を自分の目の前に置いて、ゆっくりじっとご覧ください。沈黙のうちに、十字架の上に神の子イエスは釘づけられて立っておられるのです。立つということは行動に移せる姿勢です。つまり、楽な気持ちではなく、犠牲を払い、いつでも闘う準備が出来ている、ということを私たちに呼びかけておられます。
 十字架の縦のラインと横のラインの交差するところに、神の子イエスがおられるからこそ、私たちは父である神と繋がり、多くの人々とも繋がることが出来ます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10;27)という掟を実践していくように招かれています。手を広げておられるのは、誰一人をも差別せず受け入れる姿勢を表しています。手に釘を打たれたことによって、私たちの我が侭や自己中心的な思いを打ち壊し、私たちが祈り、助けることに招いています。足に釘を打たれたことによって、人の為に絶えず出かけて行くイエスの行動に私たちが気付き、新たな行動によって新しいものが生まれて来ます。槍で貫かれた心臓は、私たちに自分のことを振り返らせ、罪を悔い改めさせます。
 十字架上の神の子イエスを見ると、色々なことに気付きます。すべて人のために働かれた神の子イエスのことを通して、私たち自身のことも考えてみましょう。

 現代の私たちは、イエスの時代よりどれ程豊かになったとしても、死に対する神秘をただ沈黙のうちに受けとめ、思い巡らし、深めることしか出来ません。そこにある気付きを使命として果たし続けて行きたいものです。
 今この世で、愛に飢え渇いている人々を誰が満たしているでしょうか。私たちは神の子イエスが十字架上で亡くなられたことを記念するだけではなく、神の子の救いのわざを引き継いで実行しなければなりません。私たちも絶えず神を信頼することによって人々を助けることが出来るという思いを一層燃え立たせ、コロナウイルスに感染して亡くなった多くの人々のことを心に深く留め、自分に出来ることを精一杯果たすことが出来たらと思います。たとえ様々な制約に縛られる現状の中でも静かな心を大切にしながら沈黙のうちに、自分の命と引き換えに命の豊かさを私たちにくださった神の子イエスの気持ちを思い巡らしましょう。

入堂
沈黙のうちに司祭が入堂後、
すべての装飾が取り払われた祭壇の前でひれ伏して祈リ、
主の受難の典礼が始まります


2020年4月10日
ハー・ミン・トゥ神父

2020.04.09 Thursday

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